エピローグ
オフィスは明け方ということもあり、彼女以外に局員の姿はなかった。
しんと静まりかえるフロアの壁は、あれやこれやと事後処理をこなしているうちに、
いつのまにか窓ガラスごと新調されており、デスクワークを進める上で以前よりも快適な環境になっている。
いつしか朝焼けが、まだ眠りから覚めやらぬ街を優しく撫でた。他の誰かなら仕事の手を止めて見とれてしまうだろう光景。
彼女はその生きた一枚絵を感じながら、手がけていた書類をしまった。最後に手帳を閉じる前に、一度だけ中身を視線でなぞる。
――今月某日の深夜、フューゲル=フェルゲート残党を目撃したとの通報があった。
捜索を行うも、これを捕らえることは成らず。これまでの捜査から、残党グループは国内を南西へ向けて移動していると推測される。
今後は南西部方面の捜索を強化する方針を捜査本部は決定。
薬物に関する情報の不足。実行犯から得られる証言が、当初の予想以上に限定的であり、
さらに薬物依存である故の信憑性の低さも相まって、捜査は難航を来している。彼ら、
そして彼女の中に存在する疑似人格の除去は急務であり、一刻も早い治療の効果を期待する。
また、事件以来行方をくらませているペイン=セドについては、いまだ消息を掴めてはいない。
情報の不足から、彼に関しての捜査は保留。
ひとりごと ああ、ケーキが食べたい。南第三通りのケーキ屋のティラミスがいい――。
事件から二ヶ月が経っていた。
パースは日中に比べ、だいぶひんやりとした空気を二時間ぶりに意識して吸った。
肺に溜まった重いものを吐いて、本来の身体の身軽さを取り戻す。
「おっはよう。んでもって久しぶりぃ」
珍しく早くに出勤したメルが、小さくあくびをしかけたパースに声を掛けた。
「おはよう、メル。三週間ぶりね。地方の捜査、お疲れ様」
浮き上がる涙は、彼女の無機的なマスクには不釣り合いだったが、メルは以前からそれを見慣れている。
いちいち目に留めることはない。
「疲れてはないけど、退屈でさ。パースからの帰投命令には助けられたわ」
「ディルは一緒じゃないの?」
「ロイとバードックを迎えに行くって。招集が朝七時なんて、あいつらの遅刻回数増やすだけじゃない」
「私もそう思ったんだけど……」
言いかけの彼女を怪訝そうにメルは見る。
パースはファイルを引き出しに戻し、カップを持って席を立った。設置されたサイフォンは、
パースが傾けてもなかなか中身を出さなかった。
「やれやれ、あたしにも秘密ですか」
メルはデスクにトゥルース・ランスを放りだして、窓の光景に鼻先を近づけた。ザフトスの街並みは、彼女にとって久しぶりだ。
「きれい。……けど、傷跡ってなかなか治らないんだね」
市街三ヵ所の爆発地点は、瓦礫は取り払われたとはいえ、まだ崩壊の面影を残している。窓からはそのうちの一つ、
高級住宅街のものが見えた。朝焼けを受ける高台の家々。その中にある小さな景色の穴。元、フェルゲート邸のあった場所は、
今は焦土しか見えない。
「……この間ね。リィシナに手紙送ったんだ。返事がないんだけど元気かな」
「さあ、どうかしら。怪我はないはずだけど」
「こっちの方はどうしてもね」
メルは窓に背を預け、自分の胸を指でトントン、とつついた。
「あのさ、パース。ロイはちゃんと知ってるの? リィシナが無事だってこと。
あいつ停まってる汽車からすぐに病院に行ったし、意識もなかったんでしょ?」
同僚の問いかけに、彼女は返答しなかった。
日差しが窓枠の形にフロアを照らしている。床の反射する微妙な光量の中。パースの瞳は意地悪で、楽しげなものを湛えていた。
「ロイ、かわいそ。同情しちゃうわ」
そう言う少女の面持ちも、言葉とは裏腹な意味合いを表していた。
「落ち着いて、ロイ!」
「ディル! 俺はもう限界だ! この手を放してくれ!」
後ろから羽交い絞めにされ、前に進みたくても進めないロイ。彼のベクトルの先にはPASオフィス、
そして悠々とティラミスを頬張るパースの姿がある。ディルはただ盲目的に直進するロイを押しとどめようとする。だが、
「むがああ!」
強引に同僚からの束縛を引きちぎり、ロイはのんきに構えている上司の前へとずんずんと歩み寄った。
「久しぶりだなっ」
ロイは、目の前の女性に半眼を向けた。SEMS専用のフロアは、捜査の目が地方に移ってからほとんど局員の出入りがない。
この場にいるのは馴染みのメンバーだけだ。
「退院祝いに三週間の地方捜査をさせるとはやってくれるじゃねぇか。三週間で俺のほとぼりが冷めるとでも思ってたのか?」
「お帰りなさい」
「挨拶なんざどうでもいい」
パースは椅子の角度をずらして、かたくなにロイと目を合わせることを拒んでいる。顔を覗こうと移動すると、
彼女は椅子ごと床の上をぐるぐると回った。そういえば、こんな彼女の応対も二ヶ月ぶりだと、ロイは実感する。
「おい、なんで黙ってたんだ! リィシナの意識が戻ったことをっ」
「それを誰から……?」
すると床に倒れていたディルが手を挙げた。
「だって今朝会った時にも知らなかったんだよ。さすがにかわいそうだと思って」
「何で話さなかったんだよ。入院中でも、地方捜査中でも、一言手紙でも出せばいいだろうが!」
これ以上にないというほど、パースに顔を近づけ、彼女の視線の逃げ場を失くす。他の男性局員が見たら、
悲鳴を上げてロイに総攻撃を仕掛ける場面だ。
ディルは苦笑しながら、二人の痴話喧嘩を見守った。とはいっても、ロイが一方的に噛み付いているだけだが。
あの事件の時、パースやウヌラートたちは、ザフトス市から十数キロ離れた地点で、停車していた蒸気機関車を発見した。
車内には全滅したフェルゲート一味と、動かなくなったリィシナ、そしてブレーキをかけたところで力尽きたのだろう、
機関室で死んだように倒れ込んでいたロイの姿があった。
ロイの体は度重なる激闘で消耗しきっており、命の危機すらあった。
それでもたった二週間で退院してしまうあたり、彼の生命力はこのPASの中でもずば抜けているのだろう。
そして彼は、リィシナの意識が無事に戻ったことも知らされることもなく、退院早々、地方へと三週間飛ばされることになった。
強引としか思えない人事に、ディルは首をかしげるしかなかった。パースの意地悪と取ることもできなくはないが、それ以外に、
彼女には理由があるように思えた。
ファントマビリティの過剰酷使によって、意識不明の重体に陥ったリィシナだったが、あっけないほどに、
三日ほどの混濁で意識を取り戻した。それは彼女自身も意外だったらしく、
何の支障もない自分の身体におおいに困惑していたものだった。
元々フューゲルに引き取られた他の兄姉と違い、リィシナがフェルゲート家で養子として生活していたのも、
彼女が薬を投与されていたのも、数ヶ月間と短かった。その分、薬の後遺症もほとんどなく、リィシナは晴れて退院し、
今は自由の身となっている。
「待てよ。だったらリィシナは今どうしてるんだよ。それにフューゲルは! あいつならいろんな情報持ってるはずじゃないか!」
だがその問いは、辺りに軽い落胆の空気をもたらした。
「フューゲルは……」
ディルがやや浮かない表情で答える。
「彼は今、廃人同然だよ。自ら例の薬を服用していたみたいでね。それもずっと以前から」
「廃人って……」
「前に捜査中に中毒患者を見つけたって話したろ? 彼もそれと同じ症状なんだ。捕まえた彼の子供たちも同じ症状だよ」
「つまり、情報は得られないということよ」
パースが付け加えた。微かな吐息。瞳に深い想いをよぎらせた彼女は、まるで独り言のように呟く。
「ジェミニの子供を養子にしていたのも、薬の都合……。幻創の業とでもいうのかしら」
「格好つけてる場合かっ。それでリィシナはどこでどうしてるんだよ!」
両の手をわななかせ、この際上司への叱責は後回しに、ひたすらその点を明らかにしたがる。
それは少女が無事でいることへの純粋な歓びがそうさせた。
「がっははは。嬉しそうだな、ロイ」
「当たり前だろ。それに……」
バードックの言葉に、彼は荒々しくパースの肩を前後させる手を止めた。
「あいつには、まだ謝ってなかったしな」
「まあ、確かに罪滅ぼしはしなくちゃね」
彼に肩を掴まれながら、パースも呟いた。
「結果的に私たちも彼女を騙すことになったものね」
「へえ、何だやっぱりそうだったのか! 随分回りくどい真似しやがって! ならなんでそれを教えない!
どれだけ俺があいつが犯人なんじゃないかって悩んだことか!」
再び肩を揺さぶるロイに、パースが相変わらずの無表情で答えた。
「だって、その方が面白いでしょう?」
「ぐ……っ!」
思わず絶句し、一瞬動きを止めた隙を見計らって、ディルが再び彼を拘束した。
「離せ! 離してくれっ! どうやら神は、俺にこいつを殺すように言ってるらしい!」
暴れるロイにパースが強烈なでこピンを喰らわせた。いい音が鳴って、彼はのけぞって額を押さえた。
「何しやがる!」
「そのせいで、あなたと彼女の間にすれ違いを生んだのは知ってるわ。だから、お詫びをしようって言ってるのよ。
今日が何のための招集か知ってる?」
それに対し、ロイは口をつぐんだ。他のメンバーも首を振っている。
その時、ふとロイは廊下に足音を聞きつけた。他の視線も連れてフロアの入り口を見やる。
だが特に何ということはなく、現れたのは脇に新聞を挟んだウヌラート係長だった。
「お、みんな集まっとるな。感心なことだ」
「なんだ係長か」
メルが面々を代表して不平を言うと、ウヌラートは一つ咳払いをした。
「まったく失礼な。それよりミーティングを始めるぞ」
その言葉に、PASの面々がその場に直立し、話を聞く体勢が整うと、ウヌラートはもったいつけた態度で話し始めた。
「これよりPASの新メンバーを紹介する。特別な人事だが、当人の希望とパースの推薦もあり、
採用した。それに彼女の素質は本物だ。文句なんか言わせないぞ」
ふふん、と鼻を鳴らし、彼は半開きの扉から外にいる何者かを呼びつけた。
「さあ、入って入って」
招き入れられた人物に、パースとウヌラート以外の全員が驚きに目を見開く。オフィスに生まれるざわめきの中、
そのおろし立ての制服を纏った少女は、一番着こなしのなっていない青年と瞳を合わせた。
「リィシナ=フェルゲートです。しばらくは研修員だけど、よろしくお願いします」
長かった白い髪を肩の辺りで切りそろえ、それを揺らして局式の敬礼をする。初めて会ったときとは比べられないほど明るい笑顔で、
少女ははきはきと、ありのままの自分を紹介した。
全部読んでくださった方々、お疲れ様でしたとありがとうございました。
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