第二章 リィシナ=フェルゲート
……カタ……ガタ……
細かい振動が不快感を与える。蒸気車の後部座席で眼を閉じていたロイは、寝不足にしぼむ目を懸命に押し開けている。
「到着までもう五分もかからないわ。いい加減起きたらどう?」
「起きてるさ」
若い女性の声に、しかしロイは小さく呻きながら眉を寄せた。眠気に負けそうになるまぶたを指でほぐしてやりながら、
彼は隣の声の主を見やり、そして付け加える。
「もうホント、昨日からずーっとな」
うっすらと皮肉げな笑みを作って見せる。その顔には、昨夜の夜番による疲れが確かに浮かび上がっていた。
「あらそう」
隣に座る女性は彼のことを捉えてはいたが、別段同情の目というわけでもなく、ただ普段通りに感情を隠した美貌を向けている。
それが彼女の当然の反応だと理解していても、あしらわれて気分が良いはずもない。
胸の中に溜まった憂鬱な空気を入れ換えるため、ロイはちょうど顔横にある小さい引き窓を開けて、朝の空気を車内に入れた。
遠慮のないあくびを一つ。
「そうそう、これにざっと目を通しておいて」
彼女は三枚ほど綴られた資料をファイルケースから取り出した。
「あの娘のデータよ。なるたけ覚えておいて」
「……リィシナ=フェルゲートか」
ロイは昨日の少女のことを思い出した。
リィシナ=フェルゲート。
隣に座る上司と同じ、ジェミニの娘。どこか他人と一線を引いているような印象を感じさせていた少女だ。
白い長髪がその少女の儚さを表しているように見えた。
ロイはパースから資料を受け取ると、言われた通り、資料にざっと目を通す。そして、彼の目は自然とある一項目に止まった。
そこには今回訪れることになっている、フェルゲート一家の家族構成が掲載されていた。
父親であるフューゲル=フェルゲートを筆頭に、長男ロベッツ=フェルゲート、次男ラング=フェルゲート、
長女レベッカ=フェルゲート、次女ルイジェル=フェルゲート、そして三女のリィシナ=フェルゲート。
書類を見る限りではフューゲルは五人の子供を養っているということになるのだが、ロイが目をつけたのは、
それぞれの名前の横に付け加えられている「養子」という文字だった。しかも五人の子供、全てに付いてある。
「何か気になることでも?」
「ああ、血繋がってないのか、あの二人」
ロイは昨日のリィシナとルイジェルの様子を思い出す。
白い髪のリィシナと、赤い髪のルイジェル。柔和で脆弱な表情のリィシナと、はっきりとした目鼻に凛とした空気の似合うルイジェル。
なるほど、外面はさることながら、内面的なことも相違だらけだ。
しかしその中にも、二人には共通点があった。ロイはそのことを思い出した。
「そういや二人ともジェミニだったな」
「そうね。ついでに言うのなら、フェルゲート家は全てジェミニよ」
ロイが書類上から、その事実を見つけ出すより前に、パースが言った。
確かに書類には全員の所に、ジェミニとある。
「珍しいな。フューゲル=フェルゲートはジェミニばっかり引き取ってるってことか」
「あら、ジェミニの現状を知っていれば、彼らのような孤児を引き取る人は少なくないわ」
ザフトス市の中では、最大級に危険視されている幻影犯罪。そしてそれを生み出す能力を持つジェミニ。そのような意味で、
彼らが迫害されることは珍しいことではなかった。
現在では、そのような行為は禁止されてはいるが、そういった事情から、親の元から手離される子供がいることも事実。
孤児となったジェミニ達の実状を知り、善意から引き取って養子にする富豪もいる。
フューゲル=フェルゲートはその一人ということか。
「しかし五人も引き取るとは、フューゲルとやらはそんなに子供好きなのか?」
ロイの問いかけに、パースは資料を覗き込むのをやめ、僅かばかりの時間、瞳を閉じた。
その仕草は普段となんら変わらないのに、どこか物憂げな様子に見えたのは、ロイの気のせいだろうか。
「そうね。どうなんでしょうね」
結局、彼女はただそれだけ答えた。
ザフトス市のほぼ中心部にある、治安管理局から車でおよそ二十分。
街の南にある高台に上がると、二人を乗せた蒸気車は、高級住宅街に指定される一帯に入った。
政府や企業の上役が好んで住むだけあって、下町に溢れる複数階建ての集合住宅などとは造りの丁寧さが違う。
一軒一軒に必ずある芝生の庭には四、五本の木が植えられて、生い茂った青葉が邸宅を扇ぎ立てるように揺れている。
白とベージュ色が多い建物に挟まれた道路もまた、大衆に踏まれて所々痛んだ下界のそれと異なり、
ぴっちりと舗装用タイルが敷き詰められている。とにかく、街ぐるみで金のかけ方が違うのだ。
ロイとパースの乗った蒸気車は、その中でも中堅規模の庭園沿いを走っていた。
その家が他の自慢げな造りと少し違っていたのは、庭園を取り囲む高さ二メートルほどのトレリスと、
その表面に絡まるツタと赤ピンクの花が、敷地内のプライベートを慎ましやかに護っている点だった。
蒸気車はトレリスの途切れ目にたどり着き、開かれた門の前で停止する。
若い使用人がすでに門前におり、車から降りたロイとパースはその使用人に案内された。
庭園の花壇に咲く赤、黄、橙色の花を見ながら肌茶色のタイルの上を歩き、フェルゲート邸内へと招き入れられる。
使用人は二人を応接室に促すと、すぐに姿を消した。
庭に面したその部屋は壁一枚がまるまるガラス戸となっていた。先ほど見た花壇が芝生の向こうに見える。初夏の陽光が屋内に注ぎ、
白い内壁と相俟って室内は明るかった。
「今回の仕事で何をするか理解してる?」
テーブルに運ばれた紅茶を一口飲み、パースはロイに尋ねかけた。
というのも、ロイはジェミニの監視という仕事をしたことがない。元々、彼に限らず幻影対策係PASに所属する者で、
今までこの種の仕事を担当した者は少なかった。
それは被監視者とデリケートな関係を維持しなければならない担当官に対して、PASには強い個性を持つ者が多いことに由来している。
この市のPASで担当官の経験者は、パースと係長のウヌラートぐらいである。
ロイはカップの中身をスプーンでゆっくり回した後、ミルクを入れた。そのまま中身をじっと凝視する。
「ロイ」
「ああ、わかってる。――って、あっ!」
パースの細い指にカップを弾かれると、最初はきれいな渦を巻いていたミルクが紅茶の中に拡散してしまった。
「あぁ、くっそー」
「で、何をするかはわかってるの?」
彼女に恨めしげな視線を送った後、ロイはもはや白茶色に変わった紅茶を飲み下して、仕方なしに答えた。
「つまり、あの子の情緒を見ればいいんだろ? 今までの統計だと、能力の暴走は精神の乱れから起こることが多いらしいからな」
その答えにパースは小さくうなずいた。
「幻影を創る際、術者はその場に存在するCスチームを媒介にするの。そして発現された幻は術者のイメージそのもの。
初めてCスチームに触れた時に、意思とは関係なしにイメージを幻として発現させてしまうことがあるわ。暴走は、
その状況に混乱して、さらに無秩序なイメージを具現化してしまうことよ」
「わかってる。普段からパニックを起こさないように心がけりゃ、問題はないわけだ」
しかしそう簡潔に言いながらも、ロイの内心は少し戸惑っていた。
あの時、現場に満ちていた空気は一つ。殺意のみ。
ということは何か? 昨日の幻影は、あの娘が自分を殺すことをイメージしていたということか。
中身の空になったカップをコースターに戻す。心中の思いは口にはしなかった。あの幻影の内容は、
爆発で引き出された彼女の防衛本能。つまり怯えの裏返しとも考えられるし、どうとでも取れるからだ。
何より、暴走当時の記憶がない少女を責めても仕方がない。
ロイの考えがまとまると、ちょうど応接室のドアが開かれた。
「いやどうも、お待たせして」
と言って入室してきたのは、スーツの上着を脱いだ格好をした中肉中背の中年だった。無論フューゲルだ。
紳士的な笑顔は、ビジネス的なものを感じさせられる。
そしてその後ろにはあのリィシナも一緒にいた。昨日とは違う、学校の制服に身を包んでいる。
パースが立ち上がり、軽く会釈する。ロイもそれに習った。
「早朝から失礼しております。リィシナさん、体調はその後どうでしょう?」
「あ、はい。お陰様で、あれから何ともありません」
リィシナは少しまごまごしながら答えた。軽い緊張のせいだろう。うっすらと頬を紅潮させている。それ故か、
ロイは昨日治安管理局で見た時よりも、年齢相応の明るい印象を彼女に持った。
使用人がフューゲルとリィシナ用のティーカップをテーブルの上に運び、応接室から出て行くと、
パースはさっそく本題を切り出した。
「では今回の処置についてご説明します」
事務的な口調で、かつ端的に話は続いた。ロイはそういう事務的な話は彼女に任せ、とにかく要点だけを拾って聞いておいた。
三週間の監視処分。担当官がつく時間。具体的な監視内容。行動に制限はなく、
普段通りの生活を送れること。監視中もプライベートは保障されること。その他細かい事項を丁寧に述べ、
パースは最後に一つ付け足した。
「リィシナさんに理解しておいてもらいたいのは、この処置の目的があなたらしさを見るということにある点です」
「私らしさ、ですか」
リィシナは戸惑ったように繰り返す。フューゲルは思慮深く優しい微笑を彼女に向けた。
「緊張することはない。普段通りにしていれば良いのだよ。リィシナ」
「……はい」
少女は父親の言葉を受け頷いた。
「担当を勤めるのは彼です」
「幻影対策係PASのロイ=ストライフです」
ロイはパースの紹介に合わせて二度目の会釈をした。はだけさせた制服の隙間から、愛用の寝間着がさらけ出され、
彼のだらしなさを如実に表す。
「あの……娘を危険から救っていただいたのは感謝しているのですが……」
その目がロイの衣服に留まって、すぐに離れた。PASと言えば幻影現象のプロフェッショナルだが、
その肩書きの示す凛としたイメージが崩れ始めて、フューゲルは必死に困惑した表情を隠そうとしている。
期間付きとはいえ、娘の傍にいる異性がこれで良いのかと、そんな想いも伝わってくるようだ。しかし、
そこにパースの清廉な声が差し込まれた。
「大丈夫です。彼はPASで一番まともな人間ですから。安心してご息女をお任せ下さい」
彼女はこの上なく上品な微笑を見せる。デートを申し入れた男性局員達をことごとく骨抜きにし、
さんざん好物のケーキを奢らせた魔女の微笑だ。説得力は欠片もないが、相手を懐柔させる力はある。
フューゲルは、ほんの一瞬局の男達と同じにんまりとした顔を作り、あっさりと彼女の言葉を聞き入れてしまった。
「それで、この後のリィシナさんのご予定ですが、普段ならすでに授業に出られている時間ですね?
基本的な説明はしましたので、お急ぎなら、ここはもう構いませんよ。後はお父上がいらっしゃれば問題ありませんから」
少女は一度父親と顔を合わせて、その了承が得られると席を立った。
「すいません。じゃあお先に失礼させていただきます」
「ええ。そういうことだから、さっそく仕事に入ってくれる?」
「りょーかい」
ロイは立ち上がると、少女のしとやかな佇まいに向けて右手を突き出した。
「それじゃあ三週間よろしくな。リィシナ」
「ええ。こちらこそよろしく願いします。ロイさん」
社交的に、友好的な笑顔で挨拶をしたロイに対して、リィシナの表情はどこか冷静としたものだった。
警戒を否めないどこか怯えた表情と、その裏に隠された敵意に似たもの。
ロイの差し出された手が彼女によって握り返されることはなかった。
リィシナがロイの横をすり抜けるようにして部屋から出て行く。
手を差し出したきり、それが空を切ったロイは、手持ち無沙汰気味に手をぶらぶらさせる。
そしてどこか愉快げにその光景を眺めているパースに、「ま、こんなもんだろ」とだけ言って、リィシナの後を追った。
最悪だった。
今日一日と言わず、これから三週間続くであろう、圧迫感とストレスに満ちた生活。原因が自分にあるとはいえ、
この事実はリィシナにとってかなりの悩みの種となるものだった。
ザフトス市郊外。俗に高級住宅地と呼ばれる丘を下る最中、
リィシナは自分の三歩ほど後をついてきている男にちらりと目をやった。
治安管理局の制服は前が開かれ、その下によれよれのシャツ。全く手入れのしていないであろう髪はボサボサだ。
ロイ、といったか。
彼はあの爆発事件の時、偶然遭遇してしまった自分を、身を賭して助けてくれた、
いわば命の恩人だ。さらには自分の起こした幻影暴走を食い止めた張本人でもある。
幻影対策係PASという彼の役職を聞けば、その行動も頷けるのだが、どうしてもリィシナは彼を信用できなかった。
一つは彼のだらしない身なりと、もう一つは彼の屈託のない笑顔。
リィシナが視線を送っているのに気づくと、ロイはこちらに笑顔で返す。「仲良くやっていこうぜ」といった、
友好的なもの。こちらがそれを何度無視しても、ロイは笑顔を繰り返す。
馴れ馴れしいとは言わない。むしろ好印象を受ける。
しかし自分には、あの笑顔がどうも苦手だった。
カラーン、と遠くから鐘の音が流れてくる。九時を告げる鐘だ。学校の授業はすでに始まっている。
話は父が通してくれているようだったので、先生はもう知っているだろう。
でもそれが面倒臭い。
タイル敷きの坂道を下りながら、リィシナは軽くため息をついた。
初夏の乾いた清々しい風とはいえ、リィシナはそれが何だか冷たく感じずにはいられなかった。
僅かに黒くくすんだ赤褐色のレンガの建物。四階建てになろうか、やや植物の蔦で覆われた外装は、
どこかの歴史的建造物を彷彿とさせる。いや、実際歴史的建造物なのかもしれない。
三、四段の低い階段を上り、建物の入り口横に備え付けられた青銅の表札に目をやる。
「セントシルエス女学院」
市内でも有名なお嬢様学校だ。特に上流階級の令嬢が通うことで有名で、次世代を担う有能な学生がここに集まる。
また美少女も集うこともあり、未来のお嫁さんにと、局の男性陣が口々に噂にしているのを、耳にしたこともあった。
白いワンピース型の制服は、いかにも清楚といった感じのものだ。リィシナもそれによく似合っている。
「何してるんですか?」
ロイが入り口近くで止まっているのを、リィシナが怪訝な表情で尋ねてきた。
「あ、ああ、いや」
まさかリィシナが通っている学校が、上流階級の女子校だったとは思ってもみなかった。これは嬉しいという以前に、
驚きだ。そして即座に居心地の悪さを覚える。
学校というものにまともに通ったこともなかったし、大人数の女に囲まれるということもなかったからだ。
局の男達には散々妬まれることが予想できるが、それならいっそ代わって欲しいくらいだ。
やや言葉を濁らせて、ロイはリィシナの後を追った。
一階にはまずロイが目指す職員室がある。そこでロイは職員達に挨拶をして、リィシナを教室まで見送った。
途中、教室の窓から覗く光景は、ロイにとっては異質そのものだった。
ぴしっとした姿勢で、女生徒が真面目な顔つきをして授業を受けている。どの顔も勉学に秀でた、
才能溢れていそうな顔つきをしている。
普段はこの学校は男子禁制である。その校舎に若い男がいる。
廊下を歩いていても、ロイは視線を一身に集めた。ある目は好奇心に、またある目は懐疑心に満ちて。
ロイは今になって、この仕事を引き受けたことを後悔しだしていた。パースの命令という手前、断ることもできなかったが、
もしかしたら彼女はこういうことも計算にいれて、自分を任命したのだろうか。
だとしたら、相当性格が腐っている。
「ロイさん」
ふと気がつくと、リィシナが戸の前に立っていた。見るとそこがリィシナの教室のようだった。
「ああ、ここか」
「はい。ロイさんは中に入りますか?」
「いや、いい」
即答した。
「ここにいても疲れるんだ。中に入ってたら俺、死んじまうよ」
はははと苦笑まじりに言うと、リィシナは無表情に「そうですか」と答えた。
「行ってこいよ。まあ、学校の中じゃ、監視も意味がないだろう。俺は校舎をうろうろしてるからさ。
全部終わったらここに戻ってくる」
どういう了見での意見だ。リィシナはそう思ったのだろう。学校内だからといって、何も起きないという保障はない。
一瞬、何か言おうとしたが、口をつぐむ。そして軽く会釈して、リィシナは教室の中に消えていった。
行ってらっしゃいと、その後ろ姿を見送ったロイは、これからどうするかと、階段へ向かった。
正午を過ぎたばかりの陽光は、現場の消火に使われた運河の水を地面から蒸発させた。
一晩経っても残る火薬臭を鼻に感じながら、ウヌラートは足下の焦げ付いた鉄片を軽く蹴飛ばし、
なんともつまらなそうな顔をする。
「どうかね……バードック」
彼は、瓦礫の真ん中で現場指揮をとる巨漢に首尾を聞いた。昨日は消火作業をしている間に日が暮れ、
現場検証は結局今朝からとなったのだ。低いがよく通る上司の声は、バードックをすぐに振り向かせた。
「どうにもいけませんなあ。どれもこれも黒こげで、とてもCケースの残骸は判別できません。捜し物が肉なら、
焦げていても嗅ぎ分けますがね! がっはははは!」
「そうか……」
ウヌラートは周囲に拡がる爆発跡地をぐるりと見渡した。
破壊のほどは甚だしく、この区画に密集していた工場は、どれも昨日の爆発の被害を大小なりとも被っていた。
壁がひしゃげたもの、人間大の鉄片が刺さったもの、爆発の余波で半壊したもの。
爆心地である例の廃工場に至っては原型すら止めていない。彼らがいる場所も、
本来ならその廃工場の内部にあたる所だったが、今では焦げた荒地だった。
「Cケースが出てこないとなると、捜査の方法を変えなければならんな」
バードックの言葉にウヌラートは嘆息した。
PASが幻影がらみの事件を捜査する際、もっとも多く取るアプローチ法がCケースの残骸からの逆探知である。
大抵の幻影犯はCスチームを発生させる場合に小型の、せいぜい拳大程度のケースを使う。
ケースを割ると濃縮されたスチームが周囲に散布されるという単純な作りで、犯人は普通その残骸を現場に放棄していくのだが、
今回のようにドラム缶サイズを爆弾で破壊するという荒っぽいやり口は滅多にない。
仕方ない、と気の進まない様子を見せながら、ウヌラートはバードックに指示した。
「手当たり次第アプローチしてみよう」
「それしかないでしょうな! がははは!」
何が可笑しいのか、やはり大仰な笑い声を上げながら、バードックは検証作業にかかっている局員に撤収を呼びかけた。
「あとは頼む」
それだけ言って、ウヌラートは焦土の上に止まっている蒸気車へ向かう。
局員達の張る立入禁止のテープの外には、多くの野次馬に溢れている。近年登場したばかりの写真機越しに現場を覗き込む取材者達。
彼はその中を分け入ってくる銀髪の女性を発見した。こちらに近づいてくる彼女を指先で蒸気車に誘導し、
互いに後部座席に座ったところで銀髪の女性、パースが車を発進させるよう運転手にうながし、話を切り出した。
「お疲れ様です。状況は?」
「だめだな。まず犯人の意図すらわからない。爆薬とCケースを一ヵ所にセットする理由は領域範囲の拡大ぐらいしか考えられないが、
この辺りには工場しかないし、幻影を発生させて得られるメリットが不明だ」
「爆破を実行した人物は、元はあの工場の責任者でした。工場の閉鎖が決まった時点で解雇になっていますが」
「逆恨み……であそこまでするとも思えんな。かといって、ロイの言うドラム缶大のCケースも前代未聞だ。しかもそれが八本。
それほどの量を用意するとなると、裏の世界でも、それなりの資金と力が必要になるな」
「Cスチームは、今となっては幻影犯の間では貴重なものです。それをただの恨みだけで、大量に使用するとは考えられません」
「……となると、やはり何らかの目的があったとみていいな」
ウヌラートの瞳に光が宿る。やや垂れ気味の目尻は、その眼光の鋭さに、釣り上がったようにさえ見えた。
そんな彼の横顔を見ることもなく、パースは頷いた。
「犯人は、まだ爆発させる意志はなく、昨日の時点ではただ爆薬をセットするために現れただけだった」
そう、そこで犯人にとって最大の誤算が生じた。
「ロイ達か……」
背もたれに体を預けながら、ウヌラートは考える。
実際このすさまじい爆発に遭遇したロイとブラスには悪いが、運がよかったとしか思えない。
しかもその場に居合わせたのがPASの人間であったのだから、これはもう幸運といえるだろう。
彼らがあの場にいたからこそ、この程度の被害ですんだのだ。
しかし犯人が幻影を広範囲に発生させようとしていたことについては、由々しき事態である。これが単独犯による、
単発の事件ならいいのだが、どうも現場検証と事件の状況から、そうでもないと臭う。
つまり事件はこれからも起こる確率が高いということだ。
「……パース、頭が痛くなってきた……」
これから自分に降りかかってくるであろう激務に、軽い頭痛を覚えたウヌラートに、パースは黙って頭痛薬を差し出した。
PASの仕事は、実はかなり忙しい。というのも、幻影犯罪という特殊な事件は、
PASにしか対応できないため、必然的に捜査の中心となるからだ。
そうなると、PASはおろか、刑事課、警備課の仕事もこなさなければならない。幻影犯罪の事後処理、
聞き込み、警備、警戒、書類整理など、たった六人しかいないPASにとって、この仕事の量は酷としかいえない。
それでもちゃんと今までやっていけているのは、それだけPASのメンバーが有能だということなのだろう。
しかしこれもある意味ではつらい仕事だ。
若い少女達に囲まれながら、ロイはそんなことを考えていた。
当然といえば当然なのだろう。普段は同性しかいない空間なのだ。異性がいるとしても、
それは年頃の少女にとってとてもそうと見れない、老いた教師のみである。
そんな中に十八の男が現れたのだから、生徒が大騒ぎするはずもなかった。しかも職業が、
治安管理局員の中でもエリート中のエリートであるPAS。そして顔はまあまあ、体格も悪くないとくれば、
ロイはもう熱い眼差しの的である。
元々は食堂で昼食をとろうとしたロイが悪かったのかもしれない。広い食堂の中で、ただ一人の男であるロイは、
一瞬にして女子生徒に囲まれた。
好物である海老グラタンを口に運びながら、好きな女性のタイプを教えてくれや、
仕事はどんなことをしているのか、果ては付き合ってくださいなどの、黄色いを通り越して橙色の声を全身に浴びる。
食堂はどれほどの広さがあるだろう。軽い運動ができそうなほど広大だ。
そこにいくつもの机が並べられ、生徒達が任意の席について昼食をとっている。
姿勢正しく、整然としている者もいるが、絶え間なく世間話に華を咲かせている者もいる。
ロイの周りに集まっているのは後者の方だろう。
ロイはふとその中に白い髪の少女、リィシナを見つけた。
広い食堂の片隅。角の席に座り、スープを口に運んでいる。日の当たらない、暗い空間。彼女を飾る純白の制服も、
真っ白な長髪も心なしか、影で濁って黒く見えてしまう。広い食堂の中で、あんな所を選ぶなんて、
わざととしか思えない場所取りだ。
ロイは半分ほど減らした海老グラタンを持ち、席を立った。
その後をついてこようとする女生徒もいたが、自分がどこに向かっているのかを知ると、その数はどんどん減り、
ロイがリィシナの向かいの席に着く頃には、もう誰もロイの後には続いていなかった。
「よう」
短い挨拶だけして海老グラタンを口に運ぶ。
リィシナは無表情のままロイを見ると、少しだけ嫌そうな顔をした。
「リィシナは今日は食堂で昼飯か?」
「はい」
「へぇ、意外だな。てっきり弁当でもこしらえて、教室で食べてんだとばっかり思ってたけど」
「いつもはそうですよ。でも今朝は色々と忙しかったですから」
「ああ、なるほど……ね」
本来ならば弁当を作る時間に自分達、PASが来た。いつもは教室でとっているのだから、食堂に慣れてないのは当たり前。
リィシナがこんな控え目な場所にいる理由が、少し分かったような気がする。
「……にしても……」
周りを見回しながら、ロイは思った通りのことを口にした。
「おまえ、友達いないのか?」
さすがにこれにはカチンときたようで、リィシナは手を止めてロイを睨んだ。それでも今までの無表情から考えると、
この表情の変化はロイにとっては新鮮に思えた。
「友達くらいはいます」
「でもよ、ここに来てからおまえに話しかけるやつ、一人もいねぇじゃねぇか。普通だったら友達と一緒に仲良く昼食だろ?
学生ってのはよ」
「……今は一人でいたいだけです」
さも不機嫌そうにそれだけ言うと、リィシナは席を立って食器を片付けた。そしてそのまま食堂から出ていく。
悪いことを言ったかな。そう思うと同時に、彼女の様子に懸念も抱く。少し態度が冷たすぎやしないだろうか?
「ナーバスになってる上に、あんな事件起こした後ですからね」
と、リィシナと入れ替わるように、ロイの向かいに座ったのは、赤い髪の少女だった。
ロイは一度だけ見たことのある、この少女の名前を思い出すのに数秒を要した。
「ルイジェルです。ロイさん」
「あ、ああ、すまんすまん。人の名前はどうも覚えにくい頭になってるもんでね」
苦笑しながら頭をぽりぽりとかくロイに、リィシナの姉、ルイジェルはにっこりと微笑んだ。
美しい少女だと思う。リィシナも美形に入ると思うが、まだ不完全な美少女といった感じだ。だが目の前のルイジェルは、
もはや「少女」と形容してしまうことすら、違和感を覚えてしまう。
切れ長の紫色の双眸に、自分の姿が映るだけで、ロイはルイジェルの美貌の完璧さを実感した。
年は確か十八だったか。とても自分と同じとは思えない。
「ルイジェル、あんたもこの学校だったんだな」
「ええ、四年生です。リィシナの三つ上」
それは初耳だった。ルイジェルがリィシナと同じ学校に通っていることは、書類にも載っていなかったし、
誰からも聞かされていなかった。まあ、少し考えればわかることではあるのだが。
ちなみにザフトス市の高等学校は、四年制になっており、ルイジェルはその最上級生、
リィシナは今年入学したばかりの新入生ということになる。
「ほんとに申し訳ありません。いつもはあんな感じじゃないんですけど……」
「事件の後遺症ってやつかな」
「はい。どうも事件が事件なだけに、周りが過剰に反応してしまってるようで、
あの子もそれで自分から距離を置くようになってるみたいです」
なるほど、とロイは一つ頷いた。
幻影を発生させた。これは年頃の少女達には大変なゴシップとなったようだ。
リィシナが普段はおとなしくも明るい性格だったのは、想像に難くない。そんな子が、
市内で最大の凶悪犯罪といわれる幻影を巻き起こした。
いつものギャップと相俟ってか、この噂は瞬く間に全校に伝わったようだった。
ルイジェルもそのことを気にかけて、わざわざ食堂まで様子を見に来たのだろう。
「ロイさんにも色々と失礼なことを言ってしまうかもしれませんが、どうぞあの子のことを理解してやってください」
「失礼も何も、俺はまだ何も言われてないよ。それに俺みたいなできた男は、あんな小娘に何言われても眉一つ動かさないのさ」
ロイが肩をすくめる。
自分の妹を「小娘」呼ばわりされたルイジェルは、特に気分を害した様子もなく、再び微笑を浮かべた。妹を想う、
優しい姉の笑顔だな、とロイは素直に思った。
一つ、また軽い打撃と共に男が昏倒した。
サバイバルナイフを不器用にかざし、脅しにもならないような手つきで襲い掛かってきた男を、
メルは軽やかにやり過ごし、的確に打ちのめした。それも素手で。
そんな馬鹿な。こんな小さな獲物にここまで被害を被るとは。
事実、今まで追い詰めたと思っていたのは、男達の方だった。
自分達の縄張りに入ってきたのは、一人の少女だ。それでも治安管理局の制服を着ていたので、
例え少女でも油断はしていなかった。しかし、とある廃工場内部まで少女を誘い込んだ男達は、
油断の有無など全く関係なかったと思い知らされた。
八人いた仲間はすでに四人にまで減っている。少女にまず襲い掛かった男は、瞬きの間にうつ伏せに倒れていた。
次に行った男二人も、少女が少し動く間に、仲良く倒れてそのまま動かない。そして今、四人目がやられたところである。
信じられないことに、少女は超人的に強かった。いや、力比べをしたら自分達が勝つのだ。ただ、
その力比べをさせてもらえないだけ。
薄い紫色の髪の少女は、最小限の動きで、正確に急所を打ち、行動不能にしている。その動きといったら、
まるで風を思わせる。時に柔らかで時に凶暴。
「あーんた達さぁ、いい加減諦めたらぁ? もう割れてるよぉ、全部」
いざ声を聞くと、可愛らしい年相応の声色。だからこそ恐ろしい。そのギャップが恐ろしいのだ。
腰に手を当て、呆れ気味に話す少女、メルは苛立ちを隠せないように眉をぴくぴく動かした。
まるで事が自分の思い通りにいかないので、拗ねているよう。
本当ならば男達を見つけた現場で叩きのめしてもよかったし、やろうと思ったらできたことだ。
しかしそれをしなかったのは、その先にこそ、メルの目的としているものがあるからだ。
「何の話だ!」
やや上ずって、男が叫ぶ。白いタオルを額に巻き、無精髭を生やした男。どうやらこの集団のリーダー的な存在のようだ。
その男にメルはすごみを利かせて言った。
「わざわざ私に言わせる気? あんた達が大なり小なり、Cスチームを所持してるのはわかってることなのよ」
男達が息を呑む。様相に余裕がなくっていくのが如実に表れる。なんてわかりやすい奴らだ。メルはなんだか情けなくなってきた。
男達は全員ジェミニではない。それはどの瞳も紫色ではないということで確認できる。
つまりこの男達はCケースを密売する組織の末端ということになる。
末端の人間など捕まえても何にもならないことぐらいはわかる。だからこそ情けない。
自分がこんな任務に借り出されている事実が。
「オーケー。わかったわ。十秒だけ待ってあげる。今日の朝飯、胃の中から吐き出す苦痛を味わいたくなかったら、
大人しくCケースの有りかを教えなさい」
ご丁寧に男達に十本の指を立ててやる。そして一、二、三とその指を一本ずつ折っていく。
と、その時だった。メルの背後でガラスが割れるような音がしたのは。
振り返ると、窓から差し込む光にきらめく、何かの破片が床に散乱していた。黄色い破片。まるでそれは、
どこかから投げつけられ、叩き割られたような――。
メルは最終的な判断を下すまでもなく、舌打ちをして悪態をついた。
敵はあくまで徹底抗戦のようだ。
表情が一気に引き締まる。それと共に体の方も、緊張と一緒に戦闘に入る準備が整っていく。
直後、人影がメルを取り囲んだ。
それは一瞬のことだ。瞬きより短い時間。人という存在がその場に現れるには、有り得ない速さで、
十を越える影がずらりとメルの周りに現れた。
視覚的にはそれ以外の変化はない。影は影。本当に黒という色が人の形をしているだけだ。表情も肌の色も、息遣いもない。
「あんた達の中には幻術士はいないね。ということは、この工場のどこかに隠れてるってことか」
突如表れた幻影で、形勢は逆転したと判断したか、男達は笑みを浮かべメルに叫ぶ。
「ここに来たのが運のつきだったな、小娘。てめぇはここで死ぬんだよ」
ぴくり、とメルの眉がまた動く。
「それが嫌だったら売られるか? おまえみたいな幼女は変態どもに高く売れるぜ?」
低俗な話を、卑しい笑みを浮かべ語る。メルはこういう輩が最も嫌いだった。
「そうね。運が悪いわ。ただし……」
メルが腿に装着していた円筒形のホルスターから、何かを抜き取った。それはちょうど三十センチほどの黒い銛のような物だったが、
メルがそれを一振りすると、ガチガチという連続した軽い金属音と共に、その長さは一気に彼女の背丈ほどの長さにまで伸びた。
「運が悪いのはあんた達の方ね」
長すぎる得物、トゥルース・ランスを手にしたメルがにっと笑う。と同時に、影に殺気が宿った。実際、
ただのホログラム映像にすぎない幻影に、殺気が宿るはずがない。その場の空気自体に伝わる、
幻術士のものだということは言うまでもないだろう。
影達が一斉にメルに襲い掛かる。だがそれを避けようともせず、メルはただ黒い槍を影に向かって振り払った。
だが、それだけで影にとっては必殺の一撃となった。
槍に触れた影は、例外なく薙ぎ払われ、抵抗の様子もなく霧散した。
工場内の暗い空気に、影が帰っていき、それっきり帰ってこない。
何が起こったのだろう。
男達にはさっぱり理解が出来なかった。
Cスチームを媒介とする幻影を取り除く方法があるとすれば、術者を行動不能にするか、
Cスチーム自体を除去するかのどちらかしかない。
状況から考えるに、術者がやられた形跡はないので、原因は後者と考えるのが妥当だろう。
しかし槍をたったひと振りしただけで、Cスチームがなくなってしまうものだろうか。
いや、違う。あの槍だからこそ、幻影は粉々になった。
それがわかった時、男達は芯から震えた。恐怖にではない。最も挑んではいけない人間に戦いを挑んだ、自分達の愚かさにである。
「私が誰かわるよねぇ? 幻影対策係PASよ」
その身分を証明する物こそ、彼女が手に持つ黒い武器。対幻影兵器「トゥルース」である。
「トゥルース」とは、幻影対策係PASのメンバーだけに携帯を許された、コルトニウム合金製の武器である。
幻影犯罪の大元の要因となるコルトニウムには、蒸発して気体となり、蒸気と結びついて、
「Cスチーム」になるのともう一つ、違う性質がある。Cスチームを分解し、幻影を破壊してしまうという効果である。
この性質を利用し開発されたのが、コルトニウム合金製、対幻影兵器トゥルースである。
幻影を創る物が幻影を壊す。一見矛盾した二つの性質を、自分の落とし前を自分でとっているようで、
メルは密かに気に入っていた。
トゥルースには使い手によって形状が違う。メルの持つ槍型トゥルース、「トゥルース・ランス」は、
通常は三十センチほどのサイズだが、用途によって五段階の伸縮を可能とした、汎用性に長けたトゥルースである。
メルは現在、そのトゥルース・ランスを最大の五段階までに長く使用していた。
自分の天敵に出会ったことに、空気――正確にはCスチーム――が震えたように思えた。
それは怯え。幻術士の恐怖がダイレクトに空気を経て伝わってくる。そうかと思うと、次には怒りに似たものに変わり、
再びメルを影が取り囲んだ。
Cスチームがその場にとどまっている限り、そして術士が健在な限り、幻影は無限に現れる。
しかもここは工場内という密閉された空間。Cスチームが自然になくなるのは期待できない。
となると、残された対処法は一つ。術士の排除。
残った男達の戦闘能力は高くない。そう考えると、ただの映像にすぎない幻影はさして脅威ではない。
それよりもここから術士を探すことの方が骨が折れる。
メルがやれやれと再度影を薙ぎ払ったその時、
「メル、見つけたよ」
青年の声が工場内に響いた。と、次の瞬間、際限なくメルを囲む影の間に、四つの光が貫いた。
一つ一つが的確に影を捉え、無に返す。
チン、という短く甲高い音を残して、床に突き刺さったのは例外なく漆黒のナイフだった。
トゥルース・ナイフ。それを見た瞬間、メルは罵声を上げた。
「遅い! 限定された空間で何秒かかってんのっ、ディル!」
見上げると、二階部分のキャットウォークに、一人男が立っていた。柔らかな苦笑を浮かべたその男、
ディルはメルに一度謝った後、壁に向けてナイフを放った。
壁のタイルに取り付けられたレバーが投げられたナイフの勢いで上がり、それに連動して頭上のクレーンが降りてきた。
太いフックに何本かのワイヤーが掛けられおり、その先に厚い板が平らに備え付けられている。
本来は缶詰の木箱を積み上げるために使われるのであろうが、その上には今、痩せこけた中年の男が乗っかっていた。
「こ、こんなところに……」
「この倉庫は遮蔽物が多いからね。なるたけ高い場所の方が君の位置が確認できるのさ」
ディルはキャットウォークから飛び降り、ひらりと着地すると、そう解説を加えた。
男はクレーンの上から動こうともせず、座り込み、小刻みに震え、紫の目元に僅かに涙を貯めていた。衣服もボロボロで、
コルトニウムを扱う組織に抱えられているとはとても思えない風貌だ。
「これでチェックメイトね。ファントマビリティの不正使用、及びコルトニウム取締法違反であんた達を局に連行するわよ。
いいわね?」
トゥルース・ランスを短くし、ホルスターに収めたメルが、男に言った。
まだ動ける男四人は、しっかりとディルが牽制をする。幻影対策係PASが二人。この絶望的な現状で、
抗う犯罪者はそうもいない。どの顔も諦めに満ちていた。
「あ……あ……」
不意に、男が彼女を見て呻きだした。
「何よ、あんた。人見てその失礼な態度は! シャキッとしなさい、シャキッと!」
「ちょっと待った、メル」
ディルは、今や焦点すら合っていない男にがなり立てるメルを止めると、しゃがんで男の様子をじっと観察した。
「なに、どうしたの?」
メルに返答しようともせず、彼はもくもくと男の脈やら腕の皮膚やらを調べている。その間も当の幻影犯はただ怯えるように呻くだけで、
一向に反抗の様子は見せない。Cスチームの領域外の術者が無力だといっても、これは妙だった。
「メル」
数十秒後、ディルは立ち上がった。
「後衛で待機してる局員を呼んでくれ。けが人と患者を収容する」
「けが人と……患者?」
メルがディルに尋ねかける。
彼はふぅ、と嘆息して犯人の男を見た。哀れみを込めた表情で。
「この人……薬を打たれてる。末期的な中毒症状だ」
第3章 居場所