第三章 居場所
その日の夕焼けは、仕事に疲れた体を癒す、一日の最後にふさわしいものとなった。
窓の外から覗く、眼下の街並みはオレンジ一色に染まり、賑やかさと騒々しさを取り払おうとしている。
道いっぱいに出ていた露店はすでにそのほとんどが今日の業務を終え、撤去されていた。
そろそろ灯りをつけようかどうしようか。そんなくだらないことを考えていたロイだが、
やはり部屋にまだ天然の灯りが入ってきているので、やめることにした。それに夕焼けは嫌いじゃない。
治安管理局六階、SEMSフロアの一角。すでにSEMSの職員のほとんどは帰路につき、オフィス内に残っているのは、
ロイを合わせたPASのメンバー六人だけであった。
皆、今日から始まった激務に疲れた顔をしているが、ただ一人、PASの隊長パースだけは無表情のため、
疲労の度を知ることはできない。
「――でして、現在のドラッグの入手経路と大元を刑事課と共に捜索中です。以上です」
ちょうどディルが今日の捜査報告を終えた。
始めの報告は、昼にディルとメルが捕まえた薬物中毒の幻影犯のことだった。
ロイが遭遇した工場爆破事件で使用されたCケースの出所を調べるため、係長ウヌラートは、
市内に潜伏している幻影犯全てにアプローチをかけることにした。幻影犯といっても、
幻影を使わない限りは幻影犯とはなり得ない。あくまで可能性があるとして、
前もってリストに挙げていたメンバーを一つ一つ手当たり次第当たっていくという、
なんとも不合理で不効率なものだったが、運が良くたった一日目で手がかりとなる男たちにディルとメルが遭遇した。
偶然で突発だったが、二人と戦闘を交えた幻影犯は重度の薬物中毒に侵されていた。
それは幻覚作用と全身の痙攣と悪寒。もう少し発見が遅ければ、男は確実に廃人となっていたが、
すでに何かを聞きだすことは不可能。男はそこまでボロボロになっていた。
そこまで報告を聞いて、ウヌラートが「ふむ」と一息ついて、口元の髭をさすった。
「その男はもちろんジェミニだったのだろう?」
「はい。下級ではありますが、一度に数体の幻影を操れるようでしたし、トゥルースでの攻撃も判定が確認できましたので、
彼は覚醒済みのジェミニと見て間違いないです」
「それでその薬は、快感を得るものではないのだろう?」
「はい。街に出回っているドラッグとはまた違う、新種のようです。今科学班が成分の分析を行なってます。
服用しますとわずかにトリップ効果はあるようですが、副作用がありすぎます。デ・メリットの方が大きすぎるため、
快感を得るためだけに使用するとは考えられません」
ということは、他の何かのために男は薬を使った。しかも使用したのがそこらのチンピラではなく、
幻術士だということにウヌラートは懸念を抱いた。もしかすると、術者のイメージの力を増幅し、
幻影そのものを強化するものかもしれない。より具体的な幻影を、より鮮明に。
中には幻影のリアルさで、権力の強弱を決める組織もあるという。そのために使ったとすれば納得はいくが。
「わかった。一応捜査は持続しておいてくれ。ご苦労だったな」
「はい」
ディルがおじぎをして席につくと、今度はウヌラートがロイの名を呼んだ。
「うぃっす」
最初は立つのをやめようかと思っていたが、ディルの注意がうるさくなりそうだったので、ロイはゆっくりと起立した。
「監視の方はどうだったかな?」
「いえ、特に異常はありませんよ。いたって普通の、いたってさめざめとした性格です」
「特定の個人の感想述べてどうすんのよ」
メルが突っ込むがウヌラートは気にした様子もなく、また「ふむ」と頷いて、ロイに着席を促した。
「ロイは引き続き彼女の監視にあたってくれ。まあ楽な仕事だから、体休めるつもりでな」
「楽な仕事ねぇ……」
ふと気がつくと、パースがこちらに視線を送ってきていた。紫の瞳をわずかに細めて、ロイをじーっと見つめる。
『楽しかったでしょう? 女子校』
テレパシーのように頭の中に響いた。もちろん錯覚だが、彼女が言わんとしていることは十中八九間違いない。
性悪女め……。
ロイにとって、事件捜査をするよりも、キャピキャピした女子校生を相手する方が疲労は大きいとわかっているのだ。
そのことを踏まえたうえで、年齢が近いという尤もな口実を付け加え、ロイに監視を命令した。
彼女なりの復讐のやり方なのだろう。いつも彼女のケーキ漁りを注意するのはロイだ。仕事を無視し、
ケーキ屋で意気揚々とお茶をすすり、しかもお代は経費で払う。そんな彼女を、
時には首根っこをひっ捕まえて局に連れ戻したこともあった。
しかし彼女の仕返しは内面的でねちっこい。誰がどんなことをされると嫌がるか、十二分に理解しているのだ。
顔を引きつらせながら、パースを視界からはずすと、ロイは席に着いた。
ウヌラートが壁掛け時計に目をやる。
六時。夜勤か残業がない限り、滅多に局内に残っていない時間である。それだけPASの人間は、終業時間にうるさい。
ウヌラートはやれやれと立ち上がった。
「今日はご苦労だったな。一週間後にはコルトニウムのトロス運搬も控えている。その護衛メンバーも決めたいところだが、
疲れているだろう。また今度にしよう」
ウヌラートなりの気遣いなのだろう。その気遣いにも全く心の入った様子もなく「やったー」と万歳するロイとメル。
その二人を恨めしそうに見て、ウヌラートはミーティングの解散を告げた。
この男はいったい何を考えているんだろう。
リィシナは不意に考えた。
ロイという男が自分の監視についてから早くも三日が経とうとしていた。彼はみすぼらしい身なりとは違って、
仕事にはいたって真面目な男だった。
いや、真面目といっていいのかはわからない。監視という役目に就いているにもかかわらず、
特に四六時中自分にはりついているわけではない。ふと気がつくと姿が見えなく、
そのことが気にならなくなった頃にまたふらっと現れる。そしてまたあの苦手な笑顔で自分の名を呼ぶのだ。
「リィシナ」と呼び捨てで。
笑顔は気に入らない。苦手だ。しかし呼び捨てにされることについては、不思議と嫌な気はしなかった。
なぜかと考えた。が、今の自分には、想像も及びもしないところに、その答えがあるのだなと、リィシナは考えるのをやめた。
今日もロイは、学校が終わり、校門を出たところで戻ってきた。
リィシナは気づいていた。自分が一人でいるのは、この学校内だけだと。学校から一歩でも出ようとすると、
彼はたちまち自分の前に現れる。ボディガードのように。
いい加減な男だったが、自分をちゃんと監視はしているようだし、朝の定刻に現れ、また夕方の定刻に去っていく。
仕事には忠実だった。
「今日も一日ご苦労さん」という言葉に「どうも」と三文字で返す。
三日間繰り返してきたことだ。それでもロイは嫌な顔一つせず、それどころかまたにんまりと笑って、
小さな紙袋に入ったカステラを差し出してきた。
「そこで売ってたんだ。うまいぞぉ」
「いりません」
「なんでさ? うまいのに。ダイエット中か?」
「そんなんじゃありません!」
思わず声を張り上げてしまった。そんな自分に気がつき、リィシナは違和感を抱いた。そして思い出す。
自分がこんな大きな声を出したのはいつぶりだろう。
リィシナはわずかに顔を歪ませた。
思い出せない。自分が屈託なく声を出しているところを。出していたはずだが、記憶として引き出すことができない。
「どうした? 気分悪いのか?」
我に返る。ロイが自分の顔を覗き込んでいた。心配しているのかと思ったが、カステラを頬張りながらでは、
あまり説得力がなかった。
「とにかく、下校中の買い食いは禁止されてるんです」
「そうなのか。固い学校なんだな」
納得しているのかしてないのか、ロイが一つうなずいて、また口にカステラを運んだ。そしてまた笑顔になり、彼は言った。
「じゃあ、今度休みの日にでも買って食おうぜ」
この男はいったい何を考えてるんだろうか。
まるで自由に生きる猫のようだ。こんなにずっと笑っていて疲れないだろうか。それよりも、こんなにつまらない女に付き合って、
なぜずっと笑っていられるのだろうか。
立ち止まってそこで気がつく。自分が常に彼を見ていたことに。
どうでもいいことだ。自分の監視役なんて、どうでもいいことなのだ。それなのに、いつの間にか自分は彼に興味を持っていた。
どんな人間なのか。何を考えているのか。なぜずっと笑っているのか。
項目を挙げるとキリがない。それは一人の人間を知るというより、動物を観察するようなものに近いのかもしれない。
リィシナは抑えきれない好奇心に、いつもとは違う帰り道に足を運んでいた。そこに迷いはなかった。それにはリィシナも驚いた。
そして思った。寄り道なんてするのはここに来て初めてだな、と。
三時。この時間帯は、道が混む時間帯だ。路肩に出た露店。それに群がる客。学校帰りの生徒達で、
道はまともに進めないほどだ。こんなに密集していては、まともな買い物もできるはずもない。リィシナはあっさりと道を一本はずれ、
横道に入った。
横道といっても細く狭いわけではなく、大人が五人は並んで通れるほどの広さがある。
両側にはポツポツと露店が出ているし、店もちゃんと構えてある。しかし人通りは、先ほどの道よりもはるかに少なかった。
それを知っていたのだろうか。ロイは尋ねたが、リィシナは無言で前を進んだ。
意外だった。世間離れしたお嬢様だとばかり思っていたが、こんな所にも出歩いたりもするのだな。
そういえば、あの爆破事件の時も一人であんな所まで来ていたし、結構街は歩いている方なのだろう。
なぜあんな工場地区まで一人で来ていたのか。それは取調べで尋ねたが、事件のショックか、覚えていないの一点張りだった。
事実、彼女はあの工場周辺に近づいてから、爆発に巻き込まれるまでのことを一切覚えていない。
普通の女子校生が大爆発に巻き込まれれば、それも納得できる。
不意に、リィシナが立ち止まり、こちらに振り返った。
「あの公園で待っててください」
見るとほぼ円に近い多角形の公園があった。中央に小さな噴水があって、それを囲んでベンチが配置されている。
何人かの生徒が座っていた。手にはクリームいっぱいのクレープを持っている。公園に面した店にクレープ屋があるので、
そこで買ったのだろう。
人の流れはその公園で二つに別れていた。多角形の公園からは三本の道が延びている。
一本はロイ達が歩いてきた道で、ロイ達から見て左の方がリィシナ宅への帰り道だった。
そして右の方に伸びている道沿いにある店に用があるとリィシナは言った。
なんてことはない文具屋。少女が多いところを見ると、可愛らしいファンシー系の文具が揃えられた店だろうか。
リィシナにもああいうものには興味はあるのか。そう言うと、リィシナはいかにも不機嫌な表情になって、文具屋へ行ってしまった。
それが拗ねたように見えて、ロイは思わず苦笑してしまった。
公園には子供連れの母親や、女子校生がベンチで談笑していた。昼の公園の光景。何気ない光景だ。
ロイは文具屋が見えるところにある木にもたれ、リィシナの帰りを待つことにした。
彼女がこれぞというものを選び出すのにどれほどの時間がかかるのかは、まさに未知数である。女の買い物は長いと聞くが、
文具ならそんなにかからないだろう。それよりも彼女にも普通の少女らしい一面があるとわかったのだから、
ここで待つことぐらいどうということはない。
緩やかに空を流れる雲を見つつ、ロイはしばし、ぼーっとする。
「ブラスのやつも退屈してるだろうな」
初夏の陽気を眺めると、今さらながらに刑事課のパートナーのことが案じられた。
今頃は病室の窓から「任務が……任務が……」と、自分自身を焦らせて空を見上げていることだろう。
近い内に見舞いにでも行ってやろうか。その前に退院してしまうかもしれないが。
仕事熱心なのはいいが、病的なものになると暑苦しいだけだ。ロイはブラスにそのことを何回か愚痴ったことがあったが、
「おまえにだけは言われたくない」と反論されるだけだった。
仕事というのは適当に適度にでいいのだ。だいたいにして、このPASの仕事はきつすぎる。
こうして公園でのんびりしてられること自体が、不思議に思ってしまうほどだ。
そういえば今日はコルトニウム運搬のミーティングがあったのを忘れていた。
ここザフトス市には年に多くの幻影犯罪が検挙され、その度にコルトニウムが押収される。
そうして集められたコルトニウムは、局の倉庫で厳重に保管され、二年に一度、
コルトニウム専用処分工場のある隣町トロスまで運搬するのだ。
その時に使用される蒸気機関車を護衛するのに、PASのメンバーが選ばれるのだが、またこれが嫌われている仕事だった。
まず丸三日、蒸気機関車の中での生活を余儀なくされ、その間は窮屈でまずい飯を出される。
さらにトロスに着いてからは、面倒臭い手続きを長々とし、ロクな観光もさせてもらえず、
また三日間の蒸気機関車の旅である。
こんな仕事があのPASメンバーに気に入られるはずもない。むろん行くつもりなど毛頭ない。
残りの有給休暇を全て使ってでも阻止させるつもりだし、もし誰かが押し付けるつもりなら、殴り合いもいいだろう。
とにかく今日のミーティングが勝負だ。どうにかして自分は勝利をもぎ取る。
どうでもいいことで拳をぎゅっと握ったロイ。そこへ「こんにちは」と挨拶をしてきた女性がいた。
ルイジェルだった。紙袋を抱え、その中身が食材であるところを見ると、今日の夕飯の買出しだろうか。
富豪の令嬢のする行動とは思えなかったが、妙にその姿に違和感がなかったので、口に出さないようにする。
「ああ、よく会うな。なんか……」
態度を改めることもなく、ロイは木にもたれたまま、目線だけをルイジェルに向けた。
「そうですね。でも今回はすごい偶然ですよ?」
「なんでだ?」
「貴方がここにいるということは、リィシナもここにいるということでしょう?
あの子が寄り道するなんて、すごく珍しいことですもの」
「そう……なのか」
まあ、予想はできていた。たぶん必要がない限りは、こうして街を出歩くこともないのだろう。
だから今こうして街中の公園でルイジェルに会ったことは、まさに偶然だった。
そのことにルイジェルは嬉しそうに微笑んだ。
「あの子が自主的に街を歩こうとするなんて、初めてです。これも貴方の影響でしょうか」
「俺の?」
「ええ」
ルイジェルが頷く。
「貴方には何か、自由なものを感じます。もちろん悪い意味ではなくて、いい意味で。それはとても大きなもので、
周りにも影響を与えてしまうものです。普段ずっと固まったことしかしてこなかったあの子には、いい影響を与えたんでしょうね」
「……嬉しそうだな」
「ええ。妹のいい傾向に、嬉しがらない姉はいないと思います」
まっすぐとロイを見て、ルイジェルがまた微笑んだ。美しい笑顔。芯から輝く、美しい笑顔だ。彼女の紫の双眸は、
しっかりとした意志をもってロイを映していた。よくできた姉だ。これほどの姉を持ちながら、リィシナはなぜ、
あんなにも塞ぎこんでいるのだろうか?
自分が監視としてついているから? 違う。他に何かある。養子としての立場に、まだ慣れていないとか。
そういえば、以前書面で見たが、リィシナはフェルゲート家に養子として迎え入れられてから数ヶ月しか経っていなかった。
元の家がどうだったかはわからないが、いきなりあんな大富豪の家に、家族として住むことになっては、慣れるのも難しいだろう。
彼女のあの内向的な性格のわけは、そこからくるストレスか。
しかしそれも時間の問題なのかもしれない。なんといっても生活環境がいいのだから。
父も姉もよくできた人間だ。彼女が溜めたストレスを全て払拭して、明るくなるのもそう遠くない。
ふと、どこかでガラスが割れるような音がして、ルイジェルが文具店の方向に顔を向けた。そしてその表情が一気にこわばる。
それは恐怖と焦燥に満ちたもの。
ロイは文具店の方を見てみたが、見たところ異常はない。
しかしロイはトゥルースに手をかけた。ほぼ直感に危険を感じ取ったのだ。
異常がないのではない。異常が見えないのだ。
ルイジェルの紫の瞳には見えているもの。それはCスチームだ。Cスチーム自体は無色透明、無臭である。
しかし紫の瞳を持つジェミニには、それが青紫に見える。それがルイジェルを怯えさせた理由だ。
直後、店の方から悲鳴が上がった。それはまるで伝染するかのように無数の悲鳴を生み、文具店をパニックに陥れた。
「ルイジェル、Cスチームは中から漏れているのか!?」
「ええ、そんな感じです。ロイさん、リィシナはあそこに……」
崩れたルイジェルの表情が、彼女の内面を鮮明に映し出す。すがりつくように尋ねてきたルイジェルに、
ロイは返答することもなく文具屋に向かって走り出した。
その瞬間、文具屋が黒い靄のようなものに包まれた。幻術士のイメージがCスチームに反映されたのだ。
幻影の行使。これだけで相当な罪だが、無差別というおまけまでつく。無差別なら無差別でいい。ぶん殴ってやるだけだ。
しかし、今回限りは使った場所が最悪だ。
ロイはホルスターからソードを抜き取り、店に踏み入れると同時に一閃した。
ざっくりと靄が切れ、一瞬視界が拓かれる。白を貴重とした広い店内には、何人か客がいるようだった。しかし確認できる限り、
皆恐怖で動けないでいるようだ。
好都合だ。ソードで怪我をすることもない。
ロイはさらに靄を斬り、中に踏み込んだ。
コルトニウム合金製のトゥルースに触れた幻影は、ただちに分解され、無色に戻っていく。黒い靄が晴れるのも時間の問題だった。
――と思われたその時、ロイに三匹の狼が襲い掛かった。
とっさにそれを避ける。
文具店の中に狼? 幻影か。
獰猛に肉を求める狼は、さらにロイに襲い掛かる。強靭な後ろ足で跳躍した狼が、すさまじいスピードで迫るが、
ロイは臆することなくその狼をソードで両断した。途端、細かい粒子になって霧散する獣。
残る二匹の狼もこちらから仕掛け、難なく撃退した。
ロイは迷った。このまま幻影犯を確保するのが先か、リィシナを保護するのが先か。
自分が彼女の監視官という役を任されている限り、なんとしても彼女に危険が及んではいけない。
リィシナはあの事件を起こしてからまだ日が浅い。Cスチームに触れることによって、
ショックでまた暴走を引き起こす可能性も高い。
暴走した時、人の意志がCスチームに垂れ流しに反映されるので、通常の幻影よりもよりリアルに鮮明に、
そして凶悪に発生する。しかしリィシナの場合、その限度すら超えていた。今まで遭遇したどの幻影よりも強烈な力を持っていた。
見たものを例外なく震え上がらせるもの。それは彼女自身の中に潜む潜在的なファントマビリティが高いということである。
犯罪者になれば間違いなく強敵になり得る能力。
そんな彼女の力が暴走すると、一般人には多大な被害出る。ただの映像である幻影ならまだいい。彼女の力なら、
その先にある脅威にも届くことだろう。
「リィシナ!」
気がついたら叫んでいた。まとわりつくような靄を切り開き、必死になって店内を散策する。徐々に晴れていく幻影。
ばら撒かれたCスチームが浄化されだしたようだった。ロイに実際に危害を加えようとしたのは、あの狼の幻影三匹だけだった。
その後は殺気すらうかがえず、幻影は晴れ、辺りは明るみに包まれた。
店内には震えて縮こまる少女が何人かいたが、その中にリィシナの姿はなかった。
「怪我はないか?」と聞くと、少女達は大きく頷いた。
「白い髪の女の子見なかったか? おまえらと同じくらいの年の」
「い、いえ、知りません……」
上ずった声で答える少女の瞳には、涙がたまっている。恐怖。怯え。全て幻影が引き起こしたのだ。
年に数回しか起こらない特殊な犯罪であるが、だからこそこうして遭遇すると、恐怖せずにいられない。
しばらくこの少女達には心の傷としてついて回ることだろう。
「ロイさん」
その少女達とは違い、至って落ち着いた声に振り向くと、そこにルイジェルがいた。そしてその後ろに妹リィシナも一緒だった。
「リィシナ! 無事だったんだな」
彼女の元気そうな様子を見て、ロイは全身の緊張が一気に抜けるのを感じた。心のそこからの安堵の息を吐き、
疲労に満ちた笑顔を彼女に向ける。
リィシナはその笑顔にすまなそうな顔をして頭を下げた。
「すみませんでした。実はここはすぐに用をすませて、近くの洋服屋に行ってたんです」
「そうか。いや、おまえが謝る必要はないよ。何もないならそれでいい」
ロイはトゥルースをホルスターに収めると、リィシナの肩にぽんと手を置いた。
「ほんとよかった」
偽りのない笑顔。それを至近距離でされ、リィシナは若干頬を朱に染めた。そしてあわてたように顔を背けた。
苦笑するロイとルイジェル。
「ルイジェル、すまないが、リィシナと一緒に家に帰ってくれないか? 俺はここに残って仲間に報告しなきゃいけないから」
「そうですか。わかりました。ほんとにご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
ルイジェルが深々と頭を下げると、それに習ってリィシナも頭を下げた。その様子があまりにも自然だったので、
ロイは思わず「なんだか妙に素直だな?」と余計なことを口にするところだった。
「それでは」と立ち去る二人に、「気をつけてな」と手を振って見送るロイ。ちょうどここから見えなくなりそうなところで、
リィシナが振り返り、僅かに微笑んだのは、ロイの気のせいだったのだろうか。
PASの到着は思ったとおり迅速だったが、来た人物は最悪だった。
あまりの忙しさにここ数日、すっかり膨れっ面が板についたメルに、それでもポーカーフェイスなパースの二人。
メルはロイに「疫病神」と心にもないことを言い残し、現場検証に移った。
「お疲れ様、ロイ」
そんな彼女を横目で捉え、パースはロイに言った。
「犯人は?」
「捕まえたよ。今病院に送られてる」
「病院?」
「ああ。前と同じだ。ディル達が捕まえた奴らとな」
パースがぴくりと眉を動かした。ディルとメルが以前捕まえた幻影犯といえば、あの重度の薬物中毒の男だった。
ということは、今回ロイが捕まえた男も同様に、
「はあはあ言ってたよ。冷や汗でびっしょりで、よだれと鼻水。がちがち歯鳴らして、
よくわかんねぇ独り言をぶつぶつつぶやいてやがった。どうやら、幻影を途中でやめたのは、そこが限界だったからだろうな」
ロイの言ったことを逐一手帳にメモをしながら、ふむふむと小刻みに頷くパース。
時折考える仕草を見せるが、ロイが報告を終えるとメモをパタンと閉じた。
「同様の薬と見て間違いないでしょうね」
「てことは、裏が同じってことか?」
「ええ。でも意図が見えないわ。こんなところで事件起こしても、何にもならないもの。
むしろ薬のことを公にして、私たちに『こんな薬、開発しちゃったー』って宣伝してるようなものよ。
そんなことをするメリットがどこにあると思う?」
「ないな」
ロイは即答した。
「でしょう。だとすると、中毒になった男の単独の暴走と考えるのが妥当だけど、
二つ連続となるとそうとも言えなくなってきたわね」
「だな。ここ一週間で幻影犯罪が三件だ。この数ははっきり言ってこれは異常だぜ?」
肩をすくめるロイ。そんな彼に、パースは「ありがとう。もう監視に戻っていいわ」と告げた。
ロイが頷き、現場から立ち去ると、パースは閉じたメモ帳をもう一度開いた。
「一週間で三件……。そうね。そのうち二件にあの子は偶然にも居合わせた……。もう一つあるとそれは必然になるわね……」
メモ帳の上に滑らかにペンを走らせる。そこには一つ、「リィシナ」という名が新たに書き込まれた。
「また事件に巻き込まれたみたいだな」
パイプ草の煙が部屋に充満している。ここに来るたびに換気をすればいいのにと思うが、どうも父はこの臭いが好きなようだった。
ベージュのガウンに身を包んだフューゲルは、自分の書斎に呼び出したリィシナに目を向けた。
リィシナと同じ紫の瞳。しかし輝きは明らかにリィシナのそれとは違う。うすく濁った不透明の瞳。
リィシナはなんだかその瞳に自分の姿が映るのが嫌いだった。見えない紐で縛られるような感覚に襲われる。
それはまるで威圧に萎縮したように。
「はい……」
小さく、それだけ答えたリィシナに、フューゲルは深いため息をついた。何度も、彼女にその様子を見せ付けるように、
しつこく嘆息する。
頭が重くなった。それも急に。
ずきんと、一つ大きな痛みを感じ、その後まるで鉄の塊になったかのように、リィシナの頭はその重量を増した。
もちろん錯覚だ。脳がそう感じているにすぎない。ぐわんぐわんと大きな鐘を至近距離で鳴らされているようで、
リィシナは嗚咽を漏らしながら、柱に手をついた。
「また具合が悪くなったか。リィシナ」
明らかに体に異常をきたしているリィシナを目にしても、フューゲルはソファから腰を上げることはなかった。
それどころか、冷ややかな目でリィシナを見つめ、口元には笑みさえ浮かべる。
意識が遠のく。いや、違う。遠のいているのではなく、変わってきている。
その表現にどんな意味があるのかは彼女自身わかるわけもない。心のそこから、黒い水が湧き上がってきて、
自分を飲み込んでしまう、そんな感覚。
頭痛、眩暈、吐き気。立っているのもやっとの中、フューゲルはパイプをふかし、笑いながら言った。
「あんまり私の顔に泥を塗らないでくれ。仕事がやりにくくて仕方がない。でなくてもおまえにはPASの監視がついているんだ。
もっと今の自分の立場を考えろ」
「……はい」
考えることもできなかった。いつの間にか自分は返事をしていた。それは自分じゃないみたいだ。
意識のそこから生まれ出でた違う自分。その後は何も覚えていなくて、ふと気がつくと、気分はずいぶん楽になっていた。
そして自分の部屋にいることに少し驚く。
いつ帰ってきたのだろう……。おぼろげな意識を掘り返そうとするが、そこに答えはないようだった。何かを考えるということが、
億劫で仕方がない。リィシナは大きく息を吐いて、ベッドに腰掛けた。
「今の私の立場……」
ぼそっとつぶやいてみたが、それが想像以上に自分に重くのしかかっていることに、リィシナは目を閉じた。
やはりこの家は自分を迎え入れていないのか。
今まではどこかで、自分が慣れていないだけと思っていたのだが、最近は特に思う。
この家に自分の居場所があるのだろうか、と。
体がだるい。疲れているのだろうか。
そのままベッドに体を倒し、天井を見やる。真っ白な何の飾り気もない天井。そこにロイの姿が映った理由を、
リィシナには見つけ出すことができなかった。
全くもって面白くない。
あまりにも自分の思い通りに事が動かなすぎる。
今までの自分の駒の、あまりにも軽率で愚かな行動に、フューゲルはほぞを噛む思いだった。
手に持っていたパイプを力任せに床に叩きつけ、背もたれに体を乱暴に預ける。
一つ目は工場爆破事件。この時フューゲルの思惑からはずれた事が二つあった。
一つは無能な部下がPASに見つかり、工場を爆破してしまったこと。もう一つはそこにリィシナがいたこと。
本来ならCケースをその場に設置し、来るべき日を待つのみだった。しかしこともあろうか、PASに見つかり、
大量のCスチームを失い、さらには娘が幻影暴走を引き起こす始末。これで捜査がこちらにも及び、
今までのように自由に動くことができなくなってしまった。ただ幸いだったのが、PASが何も知らずに娘を返してくれたことだ。
そして次にフューゲルの元に届いたのが、リィシナがまた幻影事件に巻き込まれたということだった。
この時はさすがに冷や汗をかいた。今度こそリィシナが捕まってしまうと思ったからだ。
リィシナが捕まるということだけに関しては、大きな損失にはなるが、「計画」の実行には別段問題はない。
しかし、捜査は必ずフューゲルの元にも届くはずだ。そうなると、
「計画」は一時凍結を余儀なくなれることになる。だが今回も幸運なことに、
リィシナは幻影を起こすことなく保護され、家に帰ってきた。今のところPASの動きも見られない。
その点についてはフューゲルは安堵していた。むろん、自分を焦らせるリィシナに対しては、怒りを覚えずにはいられなかったが。
いったいどこの誰だろうか。リィシナに幻影を差し向けたのは。もちろん幻影を引き起こした実行犯などに興味はない。
フューゲルにはその奥にある黒幕がいるとわかっていた。
ただの一度。リィシナを襲った幻影はただの一度だけである。考えてみればただの偶然と見ても何もおかしくない。
しかしフューゲルは確信していた。何者かがリィシナを狙っていると。自分の「計画」を邪魔している者がいると。
それがPASだと考えたが、彼らが率先して幻影を起こすはずもない。
何よりその場にいたロイというPASメンバーがそのことを知らなかった。
何にしても、僅かなりとも疑いの目はこちらに向かれているはずだ。これ以上動きにくくなっては、
「計画」の日までに準備が間に合わない。それには自分の子供達がどうしても必要だったし、
その一人にはりつく監視がどうしても邪魔だった。
「そろそろ動かさないとならんな。『風』を」
その名を口にしながら、フューゲルは恐れと共に笑みを浮かべた。
なに、問題はない。イレギュラーはあったものの、全て許容範囲だし、ズレが生じても、自分には切り札が二つ残っている。
その一つを近いうちに動かせることに、フューゲルは口元の笑みを隠せずにいられなかった。
第4章 懐疑