第四章 懐疑

 翌日、まだ夜番の職員以外誰一人出勤してきていない早朝。そんな時間から、PASの会議は始まっていた。
 窓から射し込む角度の低い光に、眩しく目を細めながら、ロイは大きなあくびをかみ殺した。
元々朝は強い方ではないが、遅刻は少ない。そのために制服の下には常時寝巻きという格好なのだが、 身なりのだらしない彼の格好からは想像し難いことである。
 サイフォンからカップにコーヒーを移し変え、席に戻ったウヌラートが一つため息をついた。彼もまた朝は弱い方だ。
「こんな朝早くからご苦労だったな」
 と部下達を労う言葉をかけるが、五人にはそれがウヌラートが自分自身に言っていることにしか聞こえなかった。 一斉に冷たい視線を投げ、ウヌラートを威嚇する。「なぜこんな早くから召集するんだ」と。
 しかしウヌラートはそんな視線をひらりとかわして、のんびりとした口調で言った。
「まあ、そんな怖い顔をするな。今日は君たち以外には聞かれたくないことを話し合うんだからな」
「SEMSメンバーにもですかぁ?」
 メルが挙手をして質問すると、ウヌラートが「そうだ」と大きく頷いた。
「君たちPASだけのオフレコだ」
 そうやって前もって言われると、不思議と緊張感が沸いてくるもので、メンバーは揃って姿勢を正した。 ただ一人、パースだけは元々姿勢はいいので、そのままの体勢から身動きすることはなかったが。
「さて、ロイ。その後彼女に変わった様子はないかね?」
「ああ、そうっすね……」
 ロイがリィシナの監視について四日が経った。その間、目立ったことといえば先日の幻影事件だったが、 あれに関しては真犯人が見つかり彼女には直接関係ないことが立証されている。怪我もないし、暴走もなかった。
「特にないっすね。そういや、昨日は珍しく寄り道したけど……」
「寄り道か……」
 さも意味ありげにウヌラートが言葉を切る。それが妙に気になって、ロイは尋ねた。
「それが何か?」
「いや、な。ここからはパースが説明した方がいいだろう」
 苦笑して、ウヌラートが席に座った。「パース、頼む」と上司に言われると同時に、パースが立ち上がった。 そしてロイに顔を向ける。
「これはあくまで過程の段階。しかも私と係長の二人が勝手に推測したものにすぎないわ。でも一つの可能性として聞いて」
「なんだよ。もったいぶりやがって。さっさと言えよ」
「はっきり言うわ。私達は彼女、リィシナ=フェルゲートを容疑者の一人として挙げようと思ってるの」
 彼女の口からまさかリィシナの名が出てくるとは思ってみず、ロイはあんぐりと口を開けたが、 その後に湧き上がってきたのは憤りではなく、笑いだった。
「馬鹿馬鹿しい。おまえ、係長とそんなこと話してたのか。そんな暇あんなら裏づけ捜査でもしやがれ」
 笑ったとはいえ、冗談でも容疑者の中にリィシナの名が出てきたことに、僅かに不快感はあった。しかしそれを口にする前に、 なぜそういう見解にいきついたのか、訳を聞くくらいの余裕はまだある。ロイは顔に浮かんだ笑みを一切消し、 パースに説明を促した。
 しかしパースはすっと瞳を閉じて、静かに答えた。
「今のところ、理由はないに等しいわ」
「は?」
「あなたを納得させられるだけの理由がないと言ってるの。言ったでしょう? まだ過程の段階だって」
「ちょっと待て。言ってることがめちゃくちゃだぞ。おまえは今、はっきりと『リィシナを容疑者に挙げる』と言ったじゃないか。 それなのに理由がないってどういうことだ。過程ってことは、少なくともそういう考えになった理由があるんだろう?  俺はそれが聞きたいって言ってるんだ」
「それが答えられないと言ってるの。ロイには申し訳ないけど、今はそういうことになってる、ということしか報告できないわ」
「はっ」
 馬鹿げてる。それならなぜ自分にそのことを説明する必要があったのだ。報告するなら、 証拠と理由が揃ってからでいいだろう。まだ何も説明できない段階で、 最も彼女に近いところで任務を行なっている自分に報告するなんて、タチの悪い嫌がらせとしか思えない。
 ロイは乱暴に椅子に座りなおした。ロイがパースやウヌラートに暴言を吐かないかと、ディルがその様子を、 はらはらした様子で見ていたが、あいくにそんな気すら起こらなかった。
「ロイはそういう可能性があるということを、頭の隅っこでもいいから覚えておいて。 彼女に隣接できるのはあなたしかいないし、そろそろ心を開いてきてるでしょう?」
 その一言でロイは完全に頭にきた。
 だん、とデスクを叩き、パースを睨みつける。
「俺は捜査がやりやすくなるように、あいつといるんじゃねぇ。失言だったな、パース。謝るなら今のうちだぞ」
「確かにそうかもね。でも謝る相手はあなたじゃないわ」
 あくまで皮肉で返してくる彼女に、ロイはいつものノリで対応できるほど心中穏やかではなかった。 大きな舌打ちで悪態をつき、デスクにもたれさせていたソードを肩にかける。
「どこに行くの? 会議は終わってないわよ?」
「終わったさ。もう聞くことは何にもねぇよ」
 パースの呼び止めに振り返ることすらせず、ロイはそのままオフィスから姿を消した。
 足音が完全に消えるまで、オフィスの入り口を見ていたディルが、パースの方に振り返る。
「今回はパースが悪いよ。どうしてあんなこと言ったのさ?」
「さあ……」
 小さく呟いて、パースは席に着く。しかし落ち込んだ様子もなく、パースは言葉を続けた。
「でもこれでロイがあの子とうまくやってることがわかったわ。感情移入がなければ、あそこまで過剰に反応しないものね」

 そういうことがあって、初めてロイは考えさせられていた。
 今自分が監視を続けている対象の少女。 リィシナは元はというと一つの容疑者として挙げられていても仕方がない人物なのかもしれない。 あの事故現場に現れたのが最大の理由だし、偶然にしては確かにできすぎている。 なぜ彼女が正式とした容疑者としてリストの中に挙げられなかったのかというと、 それは単に彼女が記憶を失っているからにすぎない。何も覚えていない少女を、何の証拠もなしに拘留することはできない。 その点については、パースも悩んでいたことなのだろう。
 パースの言っていることは正しい。理由は聞かなかったが、彼女は間違った行動をおこさない。それは信用してもいいことだ。
 しかし、だとすると……。
 ロイは自分の横を整然とした足つきで歩く少女を見た。
 自分の胸あたりまでしかない背丈。華奢な体は、儚さを如実に表しているようだが、それが彼女の美しさを引き立てている。 白い髪は歩くたびに風に揺られ、きらきらと輝く。
 まだあどけなさの残るその顔は、どこかやつれたように見える。
 この少女があの幻影爆破事件を起こしたと、パースは結論づけようとしているのだ。今朝も馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、 こうやって彼女の姿を見ると、ますます信じられなくなる。
 たった数日とはいえ、リィシナとすごしてわかる。彼女にはそんなことはできないと。
 ちょっとしたことで拗ね、またちょっとしたことで機嫌を良くする。少し大人しいところはあるが、リィシナは年相応の女の子だ。
 自分の中でそう答えを出すが、やはりパースのことも気にかかる。ほんとに馬鹿馬鹿しいと考えるのなら、 ここまで気にならないはずである。どこかにリィシナに対する疑惑があるのだ。 彼女が一連の幻影犯罪を起こした犯人であるのではないかと。
「ロイさん、今日は珍しく話しかけませんね」
「ん? ああ、今日は朝が早くてな。眠いんだ」
「そうですか……」
 それだけで、リィシナはまた前を向いてしまった。
 朝、彼女から話しかけてくるのは珍しい。というより初めてだ。朝は必ず自分が終始話し続け、 挙句「うるさいです」と斬られてしまうという流れが日常となりつつある。しかし今日は一言も言葉を発しない自分に、 疑問を感じたか。
 自分から話しかけるのがそんなに気恥ずかしかったのか、リィシナは僅かにむくれた様子で、早歩きになった。
「リィシナから話しかけるなんて珍しいな。いったいどういう風の吹き回しだ?」
「別に何もありません。いつもうるさい人が、黙ってたら、誰でも気になります」
「お、つーことは、リィシナは俺のことを心配してくれてたのか?」
 にへっと笑うロイにリィシナが目を細めた。
「それって、何だか好きな人を必死に口説いてる人みたいです」
「好きかもよぉ? ほら、リィシナって可愛いし」
 細めた目を刹那の間見開く。僅かに頬が紅潮していき、ぷいっとリィシナが顔を背けた。 そういったストレートな誉め言葉には弱いのだろうか。それとも投げかけられることに、慣れていないだけか。
「女性にはみんなそう言ってるんでしょう? ロイさんは女の人には弱そうです」
「ビンゴ。当たりだよ。美人ならさらに弱い」
「だからルイジェル姉さんとはいつも一緒にいるんですね」
「ルイジェルか。確かに」
 ロイが満足そうに大きく頷いて見せた。
「彼女はとんでもない美人だからな。性格もいいし、料理もできそうだし。完璧だよな、うん」
 ふと、リィシナが歩く速度を速めた。それは明らかな故意だとわかるし、「普通」でもない。 ロイはにっしっしと笑いながらリィシナの後を追った。
「嫉妬か? リィシナ」
「冗談じゃありません。ロイさんがルイジェル姉さんのことを気に入ってる事に、私が不機嫌になる理由はありません」
 そういうリィシナの顔には、明らかに不機嫌なそれとわかる形で表れていた。 口調はいたって冷静なのに、態度に如実に表れてしまう。それは、自分に対してか、 はたまた大好きな姉に向けられたものか。どちらにしても、それがなんとも可愛らしくて、 ロイは思わず笑みを絶やすことができないでいた。
 しかし、こうしてリィシナの女の子らしい一面が垣間見れるのと同時に、今朝のことも確実にロイの中で大きくなっていく。 話せば話すほど彼女の無実は強くなる。しかし無意味に疑念も大きくなる。
 それは、対犯罪のエキスパートという位置づけにいる自分の、もはや性なのかもしれない。 一度植えつけられた疑いの目は、そう簡単には払拭することはできない。
 やろうと思えば、いくらでもリィシナを犯人として確立することができてしまう。いや、 彼女が今のところ、最も有力な容疑者……。
 容疑者……。
「……なぁ……」
 無意識のうち。そう、その一言はロイの意識の範疇ではなかった。
 知らず知らずの間に、一切の笑顔を失くしていたロイは、前を行くリィシナに言った。
「おまえは幻影使いなのか?」
 やめろとロイが言った。しかしロイはそれを口にしてしまった。
 自分の中で、堪え切れないほどに成長してしまった「懐疑」を外に出してしまったのだ。
 ピタリと歩を止めるリィシナ。少しの間。そう、ほんの少しだ。
 それがどれだけ長く感じられただろうか。息苦しい一瞬。リィシナは振り返らずに再び歩き始めた。

 一つ、また居所を失くした。
 リィシナはそう思った。
 今朝、自ら話しかけたのは自分でも驚いた。今までロイには、興味こそ持っていたが、好意など何もなかった。 しかし今日は何かが違う。
 フューゲル家に自分の居場所は一つもない。そう確信したのは昨晩。父に叱られてからだ。 いや、叱られたのではない。呆れられていただけだ。
 フューゲル家に入った時は、こんなではなかった。
 父、フューゲルは我が子のように可愛がってくれたし、兄弟も優しくしてくれた。
 しかし自分が、その生活に慣れてくると共に、父と兄弟はどんどん自分から離れていった。 そう、まるで時期を見計らっていたかのように。
 理由はわからないし、聞くこともできない。はっきりと答えを聞くのが怖かったからだ。
 形はどうであれ、もう「戻る」のは嫌だった。ジェミニである自分は、孤児という立場も追加され、世間の風当たりは強かった。
 孤児院に入れられ、周りの子供はおろか、大人にまで白い目で見られ、常に一人。そんなことが数年間。 当時の生活に比べれば、今は天国同然だった。
 が、今度はその天国があの頃に戻ろうとしている。
 同じジェミニであるはずの父や兄弟に相手にされず、邪魔者扱い。自分を「リィシナ」として見てくれるのは、三つ上の姉、 ルイジェルだけになっていた。
 が、そのルイジェルも、五人兄弟の三人目ということもあり、あまり大きな態度でいられないのが現状だ。 最近はルイジェルと会わせてもらえることすらなくなってきていた。
 そんな時にふらりと現れたのがこの「ロイ」だ。
 かつての地獄に引き戻されそうになり、光を忘れかけていた自分に、彼の笑顔はあまりにも鮮烈だった。
 最初はそれが眩しすぎて、不快だと思っていた。しかし眩しさに慣れてくると、今度は居心地の良さをそこに感じ始めた。 それはそう、極寒の地に一つ、暖かなストーブを見つけたよう。
 自分でも気づかないうちに、リィシナはロイといることに、心地よさを感じ、そしてそこが自分の居場所の一つだと思い始めていた。
「おまえは幻影使いなのか?」
 それだけに、彼から発せられたこの一言は、本当に重かった。一瞬目の前が真っ白になった。 悲しさとか怒りの前に、なぜだか「無」が先行した。何も考えられない。心と頭の中が空っぽになったように、リィシナは呆けた。
 ここもか。
 自分が近づこうとする所は、決まって遠ざかっていくのだ。慣れていると言っちゃ慣れている。しかし嫌なものは嫌だ。
 リィシナは静かに歩きながら思った。
 自分はなんて暗い所にいるのだろう。そしてこの暗闇は、なんて底が深く、果てしないのだろう、と。

 初夏の乾いた風は、疲れた体を優しく包み込むように、かすめていった。涼しく、そして暖かい風だ。
 時折びゅっと強く吹いたかと思うと、今度は凪ぐ。そのきまぐれさを、女の都合と感情のようだと例えた自分は、 うまいのかどうか。
 そんなくだらないことを考えながら、ロイは寝転がった。
 コンクリートの冷たい感触が、寝巻きとスーツを通して伝わってくるが、別段問題はない。
 昼。いつも通り食堂に行き、好物の海老グラタンを頼んだロイは、まだリィシナが来ていないことに気がついた。 今日は弁当かと教室に赴いたが、彼女は自分の顔を見向きもしなかった。
 登校時のことが原因だろう。犯人扱いされれば誰でも気分は悪くなる。ましてや、四六時中監視についている男に、 犯人かと疑いをかけられたのだ。この数日、リィシナが何もしていないのは、ずっとそばにいたロイが一番よくわかっている。 今朝のはどうかしていた。
 そう、本当に自分はどうかしていた。
 そのことを謝ろうと思ったが、今は放っておくのがベストだと思ったので、ロイは一人で屋上に来ていた。
 リィシナとはこれからまだ十日あまりの間、つきあっていかなくてはならないのだ。監視役とはいえ、 一日の大半をそばに付き添うわけなのだから、本人の信頼がなければ話にならない。ましてや、 一度は容疑者からはずれたからこそ、こうして「監視」というものがついているのだ。そもそも疑うということ自体、 ルール違反だ。最初から容疑者としていたのなら、彼女は今頃局で拘留されている。
 間違っていたのは自分の考え。
 そう結論付けてから、ロイの気持ちは随分軽くなっていた。
 謝ろう。それで全部終わりだ。あとはリィシナを守っていくだけ。彼女は何もしていない。 もしリィシナを捕まえようとするやつがいるのなら、例えパースと戦ってでも阻止してやる。
「湿った風。夕方から雨ですね」
 上半身を起こし、ふと見上げると、青空に真っ赤に映える髪。ルイジェルがそこにいた。
「おまえは俺に惚れてるのか? いつも俺の前に現れるな」
 リィシナだと顔を真っ赤にするようなことをさらりと口にする。が、ルイジェルは柔らかい笑みでそれを受け流した。
「ここにロイさんがいるのが見えたものですから。日向ぼっこもいいですね」
「夕方から雨だろ?」
 ふと、南から吹いていた乾いた風は、北からのじめじめとした風に変わっていた。
 季節の変わり目の天気は変わりやすいものだ。遠く山の向こうに広がる灰色の雲を見やりながら、ロイはぽりぽりと頭をかいた。
「リィシナの様子はどうでしょうか?」
「ああ、いつもと変わらねぇな。ただ、今日はちょっと……な」
 ロイが語尾を濁らせると、ルイジェルは瞳をこちらに向けた。
「何かあったんですか?」
 ルイジェルがロイの前に上品に座った。話してくださいという眼差し。言われるまでもなく、 ロイは淡々とルイジェルに今まであったことを話した。
 もちろん、リィシナは犯人ではない、ということを強調し、ルイジェルに不安を与えないようにする。 が、いくらロイ一人がそうしたところで、PAS自体がリィシナを疑っているとなると、当然不安も出てくるだろう。 ロイはその点をできるだけ和らげるようにして話した。
 しかしルイジェルは、その表情を一切崩さずに、逆にロイの話が終わると微笑んでみせた。
「ロイさんは優しいですね」
「そうか? 言葉が足りないだけだと思うんだがな」
「言葉が足りない分、行動と空気で表しているのだと私は思います。あの子は不器用ですから、 それを無意識のうちにしか受け取れないんですよ。ロイさんの優しさをダイレクトに感じることはできないんです」
 それだけ話して、ルイジェルは僅かに伏目がちになった。
「最近は色々あって、家の中でもあの子の風当たりが強くなっています。父も姉も兄もそんなつもりはないのでしょうが、 やはり世間の目というものは残酷です。一度犯罪を起こしてしまって、それを拭い切るのは難しい。リィシナはおろか、 父達にも苦労するところがあってのことだと思います。でも、リィシナはそのことに深く傷ついています。 そしてどんどん自分の殻に閉じこもっていっています。自分の居場所のはずなのに、疎外感を抱くことの辛さ。 私もあの子を助けてやりたいのですが……」
 すっと顔を上げるルイジェル。
「ロイさんは不思議なことに、頑なだったリィシナの態度をどんどん融和していきました。 あの子自身も気づいてないのでしょうが、いつの間にか、貴方はリィシナの居場所になっていたのかもしれませんね」
「……そうか」
 ルイジェルの微笑みも、リィシナからの信頼も、なんだか自分にはくすぐったくて、ロイはルイジェルから視線を外した。
 今、リィシナが世間的にどんな位置づけにいるのかは容易に想像できた。学校での他の生徒の態度を見ればわかるし、 彼女の様子でも簡単に感づける。
 しかし、まさかそれが、彼女の家の中にまで浸透しているとは思ってもみなかった。
 ルイジェルの言った通り、父フューゲルや兄弟にまで厳しく当たられているというのなら、それは考え物だ。 彼女に自分の在り処はない。苦し紛れに手探りで、そしてやっとのことで見つけ出したのが、ロイという存在。 広大な闇の中の、ほんの僅かな光明。それならば、彼女が自分を信頼してくれるのは当たり前のことだった。
 だからこそ今朝の自分は許せない。
 一瞬でも彼女のことを疑った自分が本当に許せない。嫌悪感すら覚える。
 思い出せば思い出すほど、腹の底が煮えくり返りそうになる。外にあふれ出さんばかりの感情をなんとか押しとどめ、 ロイは地面を一つ殴りつけ、立ち上がった。
「あいつが俺を必要としてくれるのなら、俺はずっと傍にいてやることにするよ」
 その様子を見て、ルイジェルがにっこりと笑った。
「ええ、私からもお願いします」
 ふと、二人の間を強い風が吹きぬけた。
 朝から昼にかけて吹いていた暖かな風ではなく、それは冷たさを含んだ風だった。

 午後に入り、ザフトス市の空は、雲行きが怪しくなってきた。
 北の空から徐々に広がった灰色の厚い雲は、見る間に街全体を覆いつくし、活気に満ちた昼のザフトス市に暗い影を落とした。
 こりゃひと雨くるなと、ガラス越しにそう言ったウヌラートは一息つき、振り返った。
 工場爆破事件から四日。未だに忙しさの抜け切らないSEMSフロアの一角、PASオフィス。 ここだけがまるで世界から切り離されたかのように静かだった。
 もちろん人がいないわけではない。ウヌラートの執務デスクの前に並べられた事務デスクには、 ロイを除く四人のPASメンバーが整然と着席している。どの顔もいつものだらけたものはなく、神妙に引き締まっている。
 四日間。仕事に追われていたPASだったが、ただてんてこ舞いになっていたわけではない。それぞれが独自に捜査を展開し、 情報を一つ一つ集める。
 ディルとメルが捕まえた中毒幻影犯もしかり、バードックやパースは工場爆破の際に仕掛けられたCケースから、 考えられるあらゆる場所にアプローチをかけていた。係長であるウヌラートも珍しく自ら動き、成果をあげようとしていた。
 そして四日の間に収集された情報を、今ここで照らし合わせている。
 そこで二つほど気になることが浮かび上がってきた。
 一つは最近、裏の世界で大量のコルトニウムが動いたこと。幻影の媒体となるCスチームの大元はコルトニウムであり、 いうまでもなく所持しているだけで違法である。治安管理局が厳しく取り締まっているこの鉱物が、 目立って大量に動くと報告されることはまずない。
「しかし、大量のコルトニウムを動かせる者といったら、莫大な資産を持っている者くらいのものだな」
 ウヌラートがそう言うと、ディルが頷いた。元々この情報をつかんだのもディルである。顔の利く酒場に連日聞き込みに行き、 やっとのことで掴んだ情報だった。
「知っているのは組織のごく一部の幹部のみだと思われますが、取引されたコルトニウムがどのように運搬され、 処理されたのかは誰も知りません」
「つまりは数トンにも及ぶコルトニウムが闇と消えた……」
「そこで考えられるのが、先の工場爆破事件で使用された大量のCケースです。そこまで大量のコルトニウムが消費されることは、 そう滅多にあるわけではありません。恐らくは、同じ目的の元に使用される可能性が高いと……」
「無差別幻影テロか……」
 ウヌラートの眉間にしわが寄る。再びあれ級の幻影テロを模索している者がいる。
 いったい何のために? ただの酔狂か。ある意味では当たっているだろう。常識的に考えて、 爆破と幻影を一緒に持ってくるなど考えられない。狂っている。
「先に発生した爆破事件での実行犯はすでに死亡しています。ただ、その男が首謀者である可能性は限りなくゼロに近いかと……」
「ああ、そうだろうな。ドラム缶八つ分のCスチームを失っても、また用意できるような奴だ。裏だけではない。 この表世界でも幅を利かせることのできる富豪だな」
 不意に、窓の外で光が瞬いた。その後沈黙があり、轟音。
雷だ。光と音の間隔から、落ちたのは遠くない。本格的な雨はすぐそこのようだった。
 雲が一段と厚く、黒くなったような気がする。まるで火災現場の煙のよう。どす黒く渦巻く様は、これから起きようとしている 「何か」を予見しているかのようだった。
「そしてコルトニウムを有効利用のできる者――ジェミニ――だな」
 一瞬、PASメンバーの顔つきが厳しくなった。
 次にウヌラートの口から出てくる名前は、だいたい想像ができていた。しかし実際に口にするのとしないのとでは、 覚悟のしようが断然違ってくる。PASの最高権力者である者の口から出るのだ。言葉はそのまま真実となる。
 閃光。轟音。二つ目の稲光。
 ぽつ、と窓ガラスに一つ水滴が落ちた。
 ぽつ、と二つ目。三つ目。四つ目……。
 その後は堰を切ったように、大粒の雨が次々と落ちてきた。そこに降り始めなどなかったかのように、 気がつけば視界も危うくなるほどの豪雨が、ザフトス市に降り注いでいた。
 メルが近くにあったランプにスイッチを入れる。
 柔らかい橙色の光が、やがてフロアのいたるところで灯り、暗く沈んだSEMSフロアを包み込んだ。
「メル、例の薬の方はどうだ? 何か進展あったか?」
「ああ、はい。科学班からの報告では、全くの新種ではないようです。ただ係長の言っていたように、自己のイメージを増幅させたり、 強力な催眠効果によって、絶対的な暗示をかけたりすることはできるようです」
「ほう、ということは、先に確保した二人の中毒患者は、薬を『打った』のではなく、『打たれた』ということか」
「あるいは、騙されていたか……」
「ふむ……」
 ウヌラートが口ひげをさすって考え込む。
「薬の出所はわからないか?」
 この質問にはパースが答えた。
「はっきりとしたことはわかりませんが、今日一つ気になることを聞きました」
 パースがバードックに視線を送る。やや鈍い反応で、バードックがメモをパースに渡した。そこに書かれていたことに、 一通り目を通し、パースは顔を上げた。
「これは地下バーでの目撃証言なのですが、ここ最近そのバーに新種の薬を売りに来る男いたとのことです」
「新種の薬を……か? 中毒患者の使用していたものとの関連性は?」
「残念ながらわかりません。ただ気になったのはその薬の事ではなく、バイヤーなんです」
「売り手が?」
「はい。男は売りに来たというよりも、言い寄ってきた者だけに薬を売っていたようなのですが、その場に居合わせた男が言うには、 その男の名が『ペイン=セド』と」
「ペイン=セドッ」
 この名を聞いて態度を強張らせたのは、ウヌラートだけではなかった。その場にいたPASメンバー全員が一瞬目を見開き、 各々が口の中で「ペイン=セド」の名を復唱する。
 幻影犯罪についてかじったことのある者なら、誰でも知っている名だ。
 数年前に現れ、ザフトス市を恐怖に陥れた幻影犯として、当時名を馳せた殺し屋である。アッシュグレイの髪に全身を包む黒いマント。 まるで吸血鬼を連想とさせるその風貌に、鮮やかな殺しの手口で、人々から「黒き凶風」と恐れられた。
 その男の一番の特徴は、卓越した格闘能力と、幻影能力を組み合わせて襲いかかるところである。当時格闘戦と幻影を組み合わせた、 幻影戦闘術を初めて使い始めたのがペイン=セドであり、幻影を盾として使い、己の肉体をもって標的を絶命させる手口は、 幻影犯のみならず、治安管理局員達に鮮烈な印象を持たせた。
 数ヶ月にわたり、ザフトス市で二桁にわたる殺人を犯したペイン=セドは、やがて煙のようにその消息を絶ち、 以後伝説的な存在となっていた。
 その男が今になって現れた。
「ホラ話という可能性もあるのではないかね?」
「もちろん、そのことも考えられます。しかし彼がこのタイミングで現れたとなると、 やはりPASとしては見逃せないと僕は思います」
 ウヌラートが眉間をつまみ、軽く首を振った。この忙しい時に、よりにもよってペイン=セドとは。 これはPASへの当てつけだろうか。ペイン=セドは数年前に、PASと対決したことがあったが、 結局最後まで捕まえることのできなかったどころか、当時のメンバーを一人殺害されている。いわばPASの天敵といえる男だ。
「しかしペイン=セドが何で薬を?」
 ディルがパースに尋ねると、パースは間を置くこともなく答えた。
「彼は殺し屋よ。言ってみれば雇われの身。恐らく彼の後ろに何者かがついているはず。……そうね、 彼ほどの男を雇えて、そして手足のように使えるほどの力を持った『誰か』ね」
「誰か」というところに、妙に力を入れるパース。
「まさか……」
「考えられなくもないわ。いえ、むしろ可能性は大きいとみていいでしょうね。工場爆破事件、新種のドラッグ、 そして帰ってきた黒き凶風。その中心にいる人物が――」
「た、大変ですっ!」
 不意に、パースの言葉を遮るように、SEMSフロアのドアが乱暴に開け放たれ、男の局員が駆け込んできた。
 制服からすると、SEMSの人間ではないようだ。恐らく刑事課だろう。
 男は息も絶え絶えに、肩を上下に揺らし、一つ呼吸を整えてから叫んだ。
「セントシルエス学園で、大規模な幻影事件が発生しました! 怪我人は多数。死人も出てるようです!」

 時は少し遡り、時刻は昼過ぎ。空にやや雲が目立ち始めた頃、ロイは場所を屋上から校舎内に移していた。
 本当はこの学校の雰囲気に慣れなく、入るのは嫌だったのだが、雨が降りそうなのだからそれも仕方ない。何より目的があった。
「よう、リィシナ」
 ロイが目的としていた人物、リィシナは廊下の一角で、すぐに彼の前に現れた。ただし、それは彼女から姿を見せたのではなく、 あくまで偶然だったのだが。
 リィシナはロイの顔を見るなり、やはり不機嫌そうな顔した。
「何の用ですか?」
「何の用もクソも、俺はおまえの監視役だぞ?」
「今までは、授業が全部終わるまで、姿すら見せなかったのに、今日はどういう風の吹き回しですか?」
「いや、今朝のこと謝ろうと思ってな」
 本当にケロリとした一言だった。それは彼の中ですでに気持ちの整理ができていたからなのだろう。しかし対して何の準備もなく、 唐突に意外なことを言われたリィシナは、しばしきょとんとしていた。
「すまん。ちょっとこっちでも色々あってな。どうかしてたんだ。一番傍にいて、真実を見てる俺が、おまえを疑ってどうするんだよな。 すまなかった」
 深々と頭を下げるロイに、リィシナが大いに戸惑う。ロイがそんな行動に移るとも思ってみなかったし、 何より周りの視線が気になる。治安管理局の男に頭を下げられているとあっては、また根も葉もない噂を立てられるのがオチだ。
「ちょ、ちょっと、ロイさん。やめてください」
「いいや、おまえが許すと言うまでやめない」
 変なところで頑固な男だ。いや、これは想像できたことかもしれない。
「わかりました。許しますから、頭を上げてください」
 その言葉を待ってましたといわんばかりに、ロイが顔を上げ、にっしと笑った。
 その顔に思わず赤面する。いつも見てきた笑顔だ。しかし今見るものは、今までとはどこか違って見えた。もう眩しくない。 嫌悪感などまるでない。
 リィシナは苦笑しながら、ため息をついた。
「ちょっとは場所を考えてください。変な噂立てられたらどうするんですか」
「そん時はそん時さ。俺はすぐに謝りたかったんだ」
「……ずるいです」
 拗ねた仕草を取るが、顔には穏やかな笑顔が浮かんでいた。
 内心は嬉しくて仕方がなかった。というよりはほっとしていたと言った方がいいだろうか。行き着くことのなくなった孤独感、 疎外感。これらの処理の仕方を、リィシナは知らない。そしてどうかしようとも考えられない。それならば、 彼女が誰かの元に自分の居場所を作り上げるのは、当然のことなのかもしれなかった。
「ロイさんはいつも自分のことしか考えないんですね。私のことなんて――」
「待った」
 不意にロイがリィシナの話を遮った。
 頭の上に「?」と点滅させたような顔をして首をひねるリィシナ。そんな彼女の顔を見て、にっかりと笑ったロイは言った。
「『ロイ』だ。『ロイさん』じゃない」
「はい?」
「だって、そうだろ? 俺だけ呼び捨てでおまえだけ敬称有りなんて変じゃないか。友達なんだからよ」
 またもやドキリとした。「友達」という言葉に。もちろん彼は、普通の言葉の流れとして、ごく自然に言ったのかもしれないが、 リィシナはこのフレーズにひどく反応した。
 自分は彼を友達だと言ったことはないし、思ったこともない。いや、そういうことを考えすらしなかった。 なのにロイは自分のことを友達と呼んだのだ。
 それは本当に嬉しいことであり、リィシナの心を落ち着かせた。
 何気ない言葉なのに、こんなにも温かい響きを持っているのか。
「な?」と言ってくるロイに向かって、リィシナは頷いた。
「……そうだね、ロイ」
 言ってみると、どうということはないが、やはり気恥ずかしい。自分でも顔が上気しているのがわかる。 そのことがロイに知られるのがなんだか悔しくて、リィシナは顔を冷やすまでうつむいた。
 気がつくと雨が降り出していた。降り始めがいつだったのかもわからない。静かに、そして急速に雨脚は強くなっていっている。 どしゃぶりとはこういうことだろう。まるでカーテンをひいたように、窓の外の景色を一切視認することはできない。
 ルイジェルが言ってたことが当たったな。
 ついさっき、リィシナの姉が言っていた天気予報を思い出し、ロイが少し感心したその時だった。
 ――ぱりん。
 どこかでガラスが割れるような音がした。
 それはほんの小さな、耳を澄ましておかなければ聞こえない程度の音。
 しかしロイはそれを聞き逃さなかった。
 まるで動物的な聴力でその音を聞き分け、瞬時にそれが何であるか判断を下した。それは、 就いている役職のおかげとも言うべきか。認めたくはなかったが、今回はPASに感謝をした。
 その直後、轟音を立てて廊下の壁が吹き飛んだ。まるで指向性の爆薬を使ったかのように、 レンガとコンクリートが教室内から廊下側に突き抜け、瓦礫はそのまま壁を打ち抜き、外に吹き飛ばされていく。
 大きな地響き。校舎全体、いや街全体が震えているとも錯覚してしまうほどの大きさだ。
 刹那の間に学校を包み込んだ轟きは、重い余韻を残して、激しい雨音の中に溶けていく。 後に残ったのは土煙と生徒達の悲鳴だけだった。
 一瞬にして学校内はパニックとなった。爆発のあった箇所付近からは多数の生徒が逃げ出し、我先にと廊下を駆ける。 それこそ他人のことなどまるで考えてないようで、中には前を走る生徒を引きずり倒してまで逃げようとしている者までいた。 真っ先に駆けつけなければならないはずの教職員も、一緒になって逃げている。
 先日あった工場爆破事件のことも頭にあってか、自分達を襲った爆破は、想像以上に生徒達に恐怖を植え付けたようだ。
「ロイ!」
 隣でリィシナが怯えたように叫んだ。白く細い手は、無意識にだろうか、ロイの袖をぎゅっと掴んで離さない。 そんな彼女に「大丈夫だ」とだけ言って、遠く離れた爆発現場を確認する。
 ふと、白い煙が、黒い靄のように点滅したように見えた。しかし瞬きをすれば、もう次には白く戻っている。 ほんの僅かな時間だ。
 しかしその些細な異変にも、ロイは過剰に反応した。
「リィシナ! 爆発した所に、紫っぽいものが見えるか!?」
「う、うん。なんか教室の中からどんどん湧き出てるみたい……」
「そうか」
 簡単な返事だけして、ロイはソードを抜き取った。
 これはただの爆破事件ではない。四日前に体験した、爆破と幻影が混同したものだ。もっとも、 こんな人が集中した所で発生させるあたり、以前のものよりも数段タチが悪いが。
 いったい誰が。
 そんなことはどうでもいい。今自分ができることは一つだった。
「リィシナ、生徒達と一緒に外に避難するんだ。幸い外は雨だ。幻影は水には弱い」
「え、幻影って……」
 少し戸惑いを見せたリィシナだったが、あとは言葉をぐっと飲み込み、大きく頷いた。
「あとできれば治安管理局に通報してくれ。何でもいいからPAS全員よこせって言ってくれ。俺の名前出せば大丈夫だ」
「わ、わかった」
 顔は恐怖に満ちている。手足はもちろん、口調まで震えている。そんな状態の彼女を放っていくのは忍びないが、今現在、 幻影に対抗できるのは自分一人なのだ。それに今リィシナを幻影に触れさせるのは良くない。それは再びの暴走もあるが、 PASの疑念が大きくなるのを防ぎたかった。
 この事件で決定的である。彼女は無罪だ。そして真犯人は他にいるのだ。そのことをPASメンバーに知らせるためには、 彼女の事件への関連の皆無をこうして証明しなければならなかった。
「大丈夫だ。おまえは外に出るだけでいい。あとはみんなの中にまぎれていればいいんだ」
 心の底から湧き上がる畏怖を、なんとか押し留めるように、ロイが優しく言った。
「う、うん」
 緊張した顔で頷いたリィシナを横目で見、ロイは床を強く蹴った。

 幻影の元となるCスチームは、普通の人間には肉眼で確認することはできない。
 幻影を操る幻術士が、Cスチームにイメージを反映させた結果、ホログラムとして生み出されて初めて、視認することができる。
 そういう意味では、幻影よりも厄介なのはむしろ、Cスチームの方と言えるのかもしれない。
 幸い、すでに学校内に発生したCスチームには、すでに幻術士のイメージが具現されており、 それは濃い紫色の霧として禍々しく空気中をただよっていた。
 凶暴な猛獣や、空想上の怪物などを現さず、ただ霧を発生させているところをみると、 敵はそれほど「破壊」ということに重点をおいていないようだ。
 もっとも、ただのホログラムにすぎない幻影に、破壊力があるかといえば、全くの無力と言えるのだが。
 どうにしても「霧」という形で幻影を表している以上、相手はこちらを撹乱、もしくは時間稼ぎをしていると考えられる。 何がこの先に待っているのかは知らないが、このまま待ってやる義理はこれっぽっちもない。
 何しろ、今は時間が惜しい。
 一刻も早くこの幻影を取り除き、犯人を捕まえ、事態を沈静化させる必要がある。
 先ほどの爆発は、教室内から起こった。授業中でないにしろ、教室には生徒が何人かはいたはずだ。
 あの威力を見る限り、残念ながら死人が出たとみて間違いない。しかしまだ生きている者もいるかもしれない。 何人かはわからないが、早く駆けつければ、その人数も多くなるだろう。
 ロイは決意を胸に、何の躊躇もなく紫の霧に飛び込んだ。
 下段から頭上へ、一気にソードを振り上げると、それに呼応するかのように、霧が散った。
 Cスチームを分解するトゥルースの力である。
 しかし、幻影を取り払ったといっても、辺りは煙で覆われ、視界はすこぶる悪い。
 幻影を取り除くのに、最も手っ取り早いのはトゥルースを闇雲に振り回すことだが、 それではどこにいるかもわからない怪我人に当たってしまうかもしれない。
 こういう視界が極端に狭い空間では、最深の注意を払って使用しなくてはならない、意外に不便な対幻影兵器である。
 火がくすぶる音と、破れた壁の向こうから聞こえてくる豪雨の音。そして絶えることのない悲鳴。その中に混ざって、 いくつかすすり泣く声も聞こえる。
 生存者はいるみたいだ。神経を研ぎ澄ませてみたところ、恐らくは4、5人。
 瓦礫の山と化した教室の中で、少女たちはしきりに助けを呼んでいた。
「PASだ。今助けてやるから動かずに待っていろ」と、大声を出すと、泣き声は少なくなった。
 その他にも気配を探るが、生存している生徒の他には、目立ったものはなかった。
 犯人たる、敵意をもったものはどこにもない。
 もうもうと立ち込める煙を払いのけるように教室内を進むと、まず生徒が一人、そこにいた。
 顔を煤で真っ黒にし、女子生徒はロイの顔を見た途端に破顔した。
 安否を確認すると、女子生徒は必死になって首を横に振る。そして震える足をなんとか堪えて、 少女はロイにつかまりながらようやく立ち上がった。
「ここをまっすぐ行くんだ。教室から出たら走って外に出ろ。もう大丈夫だ」
 ロイの袖をつかんでそのまま一生離さないのではないだろうか、というほど怯えきった女子生徒だったが、 一人になることよりこの場にとどまることの方が恐怖だったのだろう。すぐにロイから離れ、煙の中へ入っていこうとする。
 ――と、
 その向こうにシルエットが現れた。
 かと思った次の瞬間に、女子生徒の頭上に「それ」は現れた。
 全身を鱗で覆われた、全長10メートルはあろうかというオオトカゲだ。
 その抑制のきかない瞳をぎょろっと向けると、凶暴なアギトを女子生徒を噛み砕かんばかりにと閉じる。
 精神を破綻したのではないのだろうか、という女子生徒の悲鳴。
 巨大な牙が女子生徒に届く一歩手前のところで、ロイがトカゲの頭を切り落とす。
 次の瞬間には、最初からそこには何もいなかったかのように、トカゲは粒子状に分解され、消滅した。
 幻影か。
 タイミングが合いすぎている。まるでこの空間のどこかで、自分達の行動を逐一監視していたかのような、 絶妙のタイミングで幻影は敵意を持って始動した。
 女子生徒を殺すつもりはないと断定はできる。ただ「そこに敵意を持った者が存在している」ということを、 知らせるためだけの幻影だろう。
 すでに教室を爆破していて、さらにわざわざこんな方法を取るとは、犯人はよほど陰湿な性格の持ち主なのだろう。
 ロイはもはや腰がぬけて動けない状態の女子生徒をおぶってやる。女子生徒はもう1人にはなりたくないと言わんばかりに、 ロイの背中にしがみついた。
ここまで執拗に恐怖を与えて、何になるのだろうか。
 しかもPASでもない、怨みを持つ対象にでもない、ただの何の関係のない少女に。
 その無差別的な行動に、ロイはどうしようもない怒りを感じた。
 ――と、ロイのいる教室内に風が吹いた。
 爆発によって風穴があいた壁から吹き込んできたものだろうか、豪雨も混ざって、水分の篭ったそれは、 徐々に教室内のCスチームを取り除いていった。
 教室の窓も開いていたのだろう、Cスチームという気体が換気されていき、 爆発によってめちゃくちゃになった教室内があらわにされていく。
 砕けたレンガやコンクリート、散々に散らばった机や椅子。生徒が使ってたであろう、 文具がいたる所に散乱していた。残りの生存者の姿もシルエットのみだが、なんとか確認できる。
 それでもなお、油断なく周りを視認し、次なる爆破、もしくは幻影の攻撃がないことを確信すると、 ロイはようやく安堵の息を吐いた。
 その時である。
 ロイはこの状況に一つの違和感を感じた。
 破壊しつくされた教室。
 未だ完全に回復しない視界の中で、座り込むようにして怯えている生存者。
 入り口とは反対の、窓際に、ふと一つ、直立しているシルエットがある。
 それがおかしい。
 あれほどの爆発だ。普段、事件となんら関連もしない、お嬢様学校の生徒が、さらに幻影を経験して立っていられるはずがない。 ロイが今負ぶっている少女がそのいい例だ。
 しかもそのシルエットがあるのは、入り口とは反対の窓際。今入ってきたとは思えない。
 だとすると、そこに行き着く答えは1つ。
 ――幻影犯。
 ロイはその答えが出終わらないうちにソードをかまえ、シルエットに向かって走り出していた。
 対犯罪のエキスパートであるロイにとって、背中にいる少女の重みなど苦にもならない。
 すさまじい脚力で駆け出したロイの身体は、ただちにトップスピードに乗り、「敵」との距離を一気に縮める。
 ご丁寧に逃げ出さずにずっとこの場にとどまっていた理由はわからない。べつにわかる必要もない。ロイの仕事は、 その幻影犯を無力化させ、拘束することである。
 そのシルエットは、ロイが向かっているにも関わらず、全く反応を示そうとはしない。
 ただゆらゆらと、風に身を任せるようにして、不自然に体を揺らしている。
 ――どこかで見た、とロイは思った。
 何日か前にもこのシルエットは見たことがあるような気がする。
 そう、あれはいつだったか。確かにこの光景を前にも経験したことがある。
 ふと、再び風が吹き、最後とばかりに教室内の煙が晴れていく。
 小柄で、髪が長く、華奢な手足。
 見たことがあるような気がする、ではない。
 ずっと見てきたものだ。
 思わず足が止まる。
 振りかぶっていたソードもピタリとその動きを止めた。
 慌しい外の喧騒が嘘のように、その場の空気が凍りついた。
 白い髪に、宝石のような紫の瞳。
 ロイはまるで信じられないものを見たような顔を浮かべ、一瞬間をおいた後、 気がつけばその場にいた「少女」の名を口にしていた。
「リィシナ……?」
 


第5章 ペイン=セド