第5章 ペイン=セド
気がつけば、外は嵐のように荒れていた。
豪雨が風にのって室内になだれ込み、ただただと立ち尽くすロイとリィシナを激しく打つ。
そこにくすぶっていた炎も黒煙も、ほんの十数秒のうちにすっかり消えてなくなっていた。
人二人が向かいって沈黙を続ける間ではない。
それだけ二人の受けている衝撃が大きかったということである。
ロイはしばらく状況の整理に追われていた。
リィシナは自分と別れて外に行ったはずだ。そして治安管理局に通報し、PASの出動を要請しているはずだった。
それがなぜ事件現場の真っ只中にいる?
やはり怖くなって自分の後をつけてきたのか?
頭の中に湧いて出た、都合のいい解釈をロイは即座に否定した。そんなはずはないと、
都合のいい解釈こそが真実であるのだという、強い欲望をなんとか押し殺し、冷静な判断を下す。
そう、リィシナは「教室の入り口ではなく、奥の窓際にいたのだ」
まさか校舎をよじ登って窓から入ってきたわけではあるまい。
教室内に入り、視界の悪さに迷って気がつけば窓際にいたと、解釈しようと思えばできるが、
それならば入り口に来たところで自分の名を呼ぶはずだ。
ではなぜリィシナは窓際にいた?
「リィシナ、何でここにいるんだ」
その先を考えてはいけない。ロイの表層意識とはべつに、ほぼ反射的に意識が拒絶した。
自分が一度は完全に打ち消したはずの「疑惑」から目を背けるように、ロイはそうリィシナに尋ねた。
「ロイ……」
リィシナは頭を軽く前後左右に揺さぶっている。風が強いからと思ったがそうでもないようだ。
表情が冴えない。気だるそうにただ身体と頭を揺らしている。
意識はそれでもはっきりしているようで、ロイの姿を視認すると同時に、その顔に戸惑いが表れた。
「ロイ、何で私……」
周りを見回す。有り得ない所に自分がいるといったように、リィシナの顔が面白いように困惑に満ちていく。
「何で私、こんな所にいるの?」
それはこちらが聞きたい。そう、本当に聞きたい。でないと、再びロイはリィシナを疑うことになる。
そうしたくないから、ロイはリィシナ自身から聞きたかった。
自分は何もしてない、と。
「リィシナ、おまえ、外に出たんじゃなかったのか?」
「うん、外に出た……はずだった? 1階に降りて、一番近い非常口に……、向かって……」
リィシナが頭を押さえた。まるで現実を否定したいかのように、頭を大きく振る。
「わからない。そこから先がわからない……。外に出たはずなのに、覚えてない。何だかボーっとして、
ロイの声が聞こえて、気がついたらここにいた……」
自分に言い聞かせるように、もはや聞き取れないレベルのつぶやきで、リィシナは言った。
頭が混乱している。現在の状況に全くついていけていない。外に出たと思ったら、
気がつけば事件現場でロイと向き合っていたのだ。
リィシナもまた、ロイと同様、大きく驚いていた。
身体に叩きつけられる雨も気にならない。豪雨の耳障りな音も、校庭から聞こえる喧騒も気にならない。
二人の間にあるのは沈黙と、驚愕と、拭いきれないほどに膨らんだ疑惑だった。
PASの到着は意外に早く、それから約十分ほど経ってから、パース、ディル、メルの三人が深刻な顔つきで駆けつけた。
そのままいつまでも教室内に突っ立っているわけにもいかないので、校庭に急遽立てられた、
仮設テントに避難していたロイとリィシナにはパースがつき、残りの二人は現場検証のため、
SEMSメンバーを引き連れて校舎内に入っていった。
仮設テントといっても、木製の骨組みに天幕をかけただけの質素なもので、
雨露を凌げればそれでいいといった程度のものだった。そこに設けられた簡易式の椅子に、
ビショビショにぬれたリィシナが座っていた。
見る者を惹きつける真っ白な長髪が雨に濡れ、前髪は額にぴったりと張り付いている。
元々血色のいい方ではないと思っていたが、今は白いを通り越して青い。表情もどこか虚ろで、
パースがテントに入ってきても顔を上げようとしなかった。
その後ろで腕を組んで立っていたロイが、パースに目だけで挨拶をする。
「ご苦労様」
それだけ言って、パースはリィシナの正面にあった椅子に腰を下ろした。
「ロイ、状況は?」
わかりきっている答えをわざわざ聞くつもりか。
パースのその性格の悪さに、しかしロイはそれよりも、自分はそれを口に出したくないだけなのだと、大きく舌打ちをする。
事実を曲げる意味はないので、そのままパースに説明する。
突然教室が爆破され、その後幻影が発生。その鎮静に向かったが、外に避難させたはずのリィシナがそこにいた、と。
パースはロイからの説明を終始同じいつもの無表情で聞いていた。
いつもはその無表情に頼もしさを感じさせられるが、今は苛立ちしかわかない。
だがそれもパースに向けてではないのだ。凝固しようとしている、認めたくない真実を必死に否定したがっている自分に苛つく。
そして何がなんだかわからない不確かな現状に。
パースは今しがたロイから聞いた説明を手帳にメモをすると、それをパタンと閉じて、一つ間を置いて話し出した。
「ロイ、これで決定ね」
衝撃が走った。しかし今回は局であった時ほどの反発がなかった。いや、反発ができなかったと言った方がよかっただろうか。
リィシナが何のことだかわからない顔をして、パースとロイの顔を順々に見る。
そんなリィシナにパースは決定的な一言を放った。
「リィシナ=フェルゲートさん、我々治安管理局は、貴方を幻影の違法使用で逮捕します」
「なっ……!」
リィシナの顔が強張る。次にロイに顔を向ける。
何も言えない。何か説明を求めるリィシナに、ロイに代わってパースが説明を淡々と続ける。
「今回の事件と合わせて、短期間に幻影事件が四件発生しました。はっきり言ってこの頻度は異常です。
うち一件は我々PASとの戦闘にて使用されたものですが、それでも三件は異常な数です。しかも爆破というおまけまで」
リィシナの身体が震える。その三件、全て彼女はその身体をもって体験したのだから。
それは恐怖によるものか、それとも「心当たり」があってのものか――。
そんなリィシナの反応を見て、パースがスッと目を細めた。その可憐な紫色の瞳にリィシナの姿を捕らえる。
「もうお気づきですね。そのどれもに貴方は遭遇している。これは偶然ではなく必然です」
「そ、んなっ!」
ガタリとリィシナが立ち上がる。座っていた椅子がテントの外まで転がっていった。
「待ってください! 私はたまたまそこにいただけです。本当です」
「リィシナさん、一度目は不運、二度目は偶然、三度目はもう必然です。それに、そのいずれにも貴方のアリバイがない」
一度目の工場爆破幻影テロ事件では、爆弾から逃げるロイとブラスの前に突然現れた。不自然なほどのタイミングで。
二度目の文具店幻影襲撃事件では、彼女は洋服屋に行っていて助かったと言ったが、誰もそれを目撃をしていない。
姉のルイジェルと出会ったのもロイと合流する直前のことだ。
そして三度目の今回。
リィシナがロイを見た。必死に、自分の無実を訴える目で、何も言わず、ただロイに必死に助けを求めた。
しかし三度目の事件で、リィシナのアリバイがないことを証明するのは、誰でもないロイだ。
否定したいがそれが事実だ。リィシナを擁護したいが、その点ではロイは何も言えなかった。
ロイはリィシナの顔を見ず、それ以外の点で、やっとのことで、リィシナをかばう。
「パース、しかしそれだけでリィシナを犯人と決め付けるのは早すぎる。彼女にはアリバイがなくても動機がない。
今回のような大規模な幻影犯罪が彼女にできると思うか? それに今回はリィシナと俺が一緒にいる時に爆弾が爆発され、
幻影が発生した。仮に彼女が幻影を起こしたとしたら、その前に現れた幻影は何だったんだ?」
「もちろん、私は彼女一人が一連の事件の犯人だとは思っていないわ。リィシナさん一人ではこんな事件を起こすのは不可能だものね。
そうね、彼女は組織の一員で、割と重要な位置にいる人物。さしずめ、幻影実行犯のリーダーと言ったところでしょうかね」
「リィシナが組織の一員? はっ、何の組織だよそりゃ。だいたい、そんな大きな組織がどこにあるっていうんだよ」
「あら、まだわからない? 貴方はとっくにその組織と接触しているわよ? それどころかその頂点の人物とも面会してるわ」
そこまで聞いてロイの表情が変わった。
「まさか、お前……」
「ええ、彼女の父、フューゲル=フェルゲート。そしてその家丸ごとが一つの幻影犯罪組織なのよ。彼女はその一員」
一つ、遠くで雷が落ちた。
閃光に数瞬遅れて轟く低音。
ザフトス市を覆う雷雲は、容赦なく雨粒を下界に撒き散らす。
その激しい雨もまるで気にならないように、パースは言葉を続けた。
「そうやって考えてみるとあら不思議。さっきの疑問は全て解消されるわね」
おどけたように言う。ただいつもと同じトーンで。
常時パースは口調も声色も音程も変えないため、その感情の変化を知ることはできない。しかし、
今のパースが冗談で言っていないことだけはわかった。
「フェルゲートが何のためにこの度の事件を引き起こしたのかはわからないわ。動機もね。それはこれから聞き出すつもりよ、
彼女からね」
ふっと、パースの眼光が鋭くなった……ような気がした。一度捕まえた獲物は逃さない。その確固たる意思を乗せて見られている。
言いようもない圧迫感を感じたリィシナは一歩後ろに後退さった。
とん、と背後にいたロイにぶつかり、その彼を見上げる。
自分を見ていなかった。ただ前を、パースを見て口を真一文字に結んでいる。
その顔は困惑に満ちていて、悔しさを殺しているかのようにも見えた。
「ロイ、違う! 私、知らない! そんなはずない! お父さんもそんなことしない!」
「残念ながら事実よ、ロイ。動機なんてものは関係ないの。彼女が事件に関与しているという、まぎれもない事実のみがそこにあれば、
後付けでいい。彼女、リィシナ=フェルゲートは黒。今回の連続幻影テロ事件の犯人よ」
「違います! 私、本当にしてないんです!」
パースのとどめの一言にも、リィシナは必死に食い下がった。
やろうと思えば、今この瞬間、強制的にリィシナの身柄を拘束することもできるはずだ。それをしないのは、
ロイの反応を見ているからだろう。
パースの説明と、この現状を踏まえて、それでも納得できないのなら、ロイはリィシナ逮捕を阻止するはずだ。
力づくでも。パースと剣を交えることになっても。
ただそれはパースの望むところではない。二人が激突して得られるメリットなど何もないからだ。
ロイは腐ってもPASの一員だ。いくらPAS隊長のパースといえど、本気でやりあえば、無傷ではすまない。
それならばロイがしっかりと思考をまとめ、結論を出すのを待った方が良いといった考えのものだろう。
しかしパースはわかっていた。自分とロイが戦うことになることはないと。
ロイは実直な人間だ。自分の正義に従って真っ直ぐに迷いなく動く。
彼の中に、リィシナへの疑惑がなければ、パースが「逮捕」の言葉を出した瞬間に動いていたはずである。
今ごろはトゥルース・ソードを抜いて、リィシナをかばいながら、自分と向かい合っているだろう。
だがそうではないということは、彼の中にはそれがあるのだ。
リィシナが犯人ではないかという疑念が。
今はそれだけで充分だ。
パースは懐から綺麗に折りたたまれた書類を取り出し、それを広げた。
「すでに逮捕状はとってあります。リィシナ=フェルゲートさん、局にご同行願いますよ」
それと同時に、パースの後ろに控えていた局員がリィシナの両脇をかためた。
事の進み方の早さに、もはや絶句していたリィシナは、ほとんど引きずられるように連れて行かれた。
手足を必死に動かしてもがくように抵抗するが、屈強な局員には敵うはずもなく、テントの外に止めてあった車に押し込められる。
「ロイ! 助けて! 私は何もやってない! 信じて!」
窓をバンバンと叩き、リィシナが叫ぶ。それは悲鳴に近い絶叫で。
しかしロイは動くことができない。
力一杯握っていた手の平を、爪が食い込み血が滲み出す。これ以上力を込めると、砕けてしまうのではないかというほど、
歯を食いしばり、それでもロイはリィシナの声に応える事はできない。
やっとのことで顔を上げ、局員に抑えこまれながらも、ロイの名を呼び続ける少女に、ロイは言った。
決して言ってはいけない一言を。
今までの全てを否定してしまう一言を。
どうしていいのかわからず、彼女自信もわかるはずもないのに、ロイはそれを口にだしてしまった。
「リィシナ、俺はおまえの何を信じればいいんだ」
激しい雨脚でかき消されてしまいそうな声だったが、それは確実にリィシナに突き刺さった。
重い一言だ。
今日の朝にも同じようなことを言われた。その時は絶望もした。自分の居場所を失った喪失感と、信じていた者に裏切られた怒り。
だが今は違う。
ロイは迷っている。自分を信じていいのかわからないのではない。どうすればいいのかわからないのだ。
彼の中には、確かに自分に対する疑惑もあるだろう。
しかしそれを打ち消したいものもあるはずだった。
だからリィシナは叫び続けた。ロイの名を。
自分は犯人ではないと。自分の唯一の居場所となった、彼を引き戻そうと。
動いてくれるのをひたすらに願い、叫んだ。
パースは続いて車の助手席に乗り込み、まもなく低い轟きと共に、車は大きな振動と伴って滑り出す。
そうなっても、ロイは動くことはなかった。
降りしきる雨の中、彼の姿が見えなくなるまで叫び続けたリィシナだったが、やがて力尽きたようにグッタリと動かなくなった。
視界からロイが消えた途端に襲い来る無力感。身体の隅々から気力が抜け落ちていくような感覚。
急に頭が重くなったような気もする。
ゴトゴトと、車は雨の中走り続ける。
自分はいったいどこへ向かっているのだろうか。
深い深い奈落の底か。
しかしそうなっても、リィシナは諦めるつもりはなかった。
きっと来るはずだと。ロイが、暗闇に沈んだ自分に、手を差し伸べてくれるはずだと。
そして呼ぶのだ。「リィシナ」の名を、力強く。
雨が降り続いているとはいえ、校庭の喧騒は止むことを知らなかった。
避難した生徒と教職員。駆けつけた治安管理局員に、騒ぎを聞きつけた野次馬たち。
それぞれがそれぞれの対処に追われているため、セントシルエス女学院における混乱は頂点に達しようとしていた。
四方八方から聞こえてくる怒号や悲鳴。振り続ける雨音も相俟って、その場に長時間いれば、頭痛もしてくるほどだ。
そんな校庭の一角に建てられた仮設テントの中で、ロイはまだ一人立ち尽くしたままだった。
パースはリィシナを連れていってから、もう数分が経とうとしている。
その間考えたことは何もない。文字通り頭の中が真っ白だ。
リィシナを庇い切れなかったことでの自分のへの怒り。それ以前に、彼女自身が本当に事件の犯人だったのかという疑念。
パースの話では、フェルゲートが今回の事件の首謀者であり、リィシナはその組織の一員ということらしかった。つまりは、
フェルゲート家丸ごとが、この事件に関与していたということになる。
自分達は騙されていたのか。
工場爆破事件の翌日は、フェルゲート邸に行き、フューゲル=フェルゲート本人にも会った。
温和そうな、優しい父の笑顔だった。使用人も、リィシナの兄弟も、みんな温和そうな笑顔に満ちていた。
それこそ事件と無縁のように。
しかし、自分達はその時から欺かれていたのだろうか。
もしそうだとすると、自分はとんだ道化になったものだ。
なにせ、毎日のように事件の首謀者の家に行き、挨拶を交わしていたのだから。
今日までの毎日を振り返ってくると、自嘲の笑みさえも浮かんでくる。
だが、リィシナのあの反応を見る限りでは、彼女が事件に関与しているとは思えない。局員に掴まれ、車に押し込められ、
視認できなくなるまで叫びつつけていたあの様を見る限りでは、もし犯人であったのならば、プロの演劇役者にでもなれるだろう。
しかしそれだけではパースの言ってた彼女の不審な動向を説明することはできない。
その全てを、自分は目の前で見てしまったわけだし、何より最後に起きた不可解な出来事が鮮烈で、決定的すぎた。
あれでロイは彼女を守れなくなってしまったのだ。
「ロイさん!」
ふと彼を呼ぶ声に顔を上げると、そこには真っ白な傘をさした、真っ赤な髪の少女、ルイジェルがいた。
不安に満ちた顔で、ロイの元に駆け寄り、ルイジェルは妹の安否を尋ねた。
「ロイさん、リィシナが、リィシナがいないんです! クラスの点呼確認表を見せてもらってもいないですし、
自宅に連絡しても帰っていないようなんです。まさか、あの爆発に……」
ロイの心臓が跳ねた。彼女の姿を見て。
彼女はルイジェル=フェルゲート。リィシナの姉。そしてあのフェルゲート家の息女でもある。
――ということは――。
「ルイジェル、リィシナは逮捕されたよ」
前置きは億劫だし、そういうのは苦手だったので、何もかもすっ飛ばし、ロイは単刀直入に事実のみを伝えた。
ルイジェルがぽかんとし、ロイを見上げる。彼が何を言っているのかわからないといったように。
そんな彼女に、それが演技かどうかもどうでもよくて、ロイはただ一つ、真実のみが知りたくて、言った。
「ルイジェル、答えろ。おまえの父、フューゲルは何を企んでいる? いや、違うな。おまえも含めて、
フェルゲート家は今回の事件に関係しているのか?」
昼間降り続いた雨は、夕方頃までには止み、日が暮れ、街の歓楽街が騒がしくなる時刻には
、空に星が見えるまでに天候は回復していた。
ザフトス市の中心を南北に走る街の大動脈、中央大通りから南にいくつか行き、
二つほど道を外れた辺り。ちょうど仕事を終えた男達が集まるバーや酒屋が立ち並ぶ一角がある。
その数ある店の一つにロイはいた。
かれこれすでに二時間はいるだろうか、その間にリキュールは数本空けた。
それでも気分が高揚することもなく、むしろ下降の一途をたどる自分のテンションが、
ムカツクどころか憂鬱に思えてくる。カウンターに置いてあった瓶に手を伸ばすと、すでに飲み干されてしまっていて空だった。
手持ち無沙汰になった手をパタリとカウンターに投げ出し、額を打ち付ける。
昼間に起きた爆破幻影テロ事件。その場の現場検証などはメルとディルに任せ、ロイは一人街中を歩いた。
そのまま治安管理局に帰ってもよかったのだが、パースやリィシナの顔をみる気分ではなかった。
かと言って自宅に帰っても、ただ気分がモヤモヤするだけだ。
最終的にロイが結論を出したのが、バーでヤケ飲みだった。
我ながらバカやっていると思う。
同僚は再び起こってしまった事件におおわらわだ。今夜の徹夜で仕事となるだろう。
そんな時に、最も事件に対処しなければならない立場であるPASの自分は、店で酒をあおっている。
情けないったらありゃしない。
店の中年のマスターに、おかわりを注文すると、爽やかに「閉店だ」と断れた。
ロイは酒には強い方だ。
今回のように、リキュールを数本空けたぐらいでは、歩行困難になりはしない。
雨が上がったザフトスの空気は澄んでいて、春先にしてはキンと冷え込んでいた。
アルコールを摂り、火照った顔にはちょうどいい。
酔いを醒ますように天をあおいだロイは、さてこれからどうするかと考えた。
店をはしごしてもいいのだが、あいにく持ち合わせの金はほぼ使ってしまった。
元々給料日前だったので持ち金は絶望的に少なかった。
このままブラブラすることも考えたが、そんなことしても最も意味がない。
今自分がすべきことはわかっている。道を北に歩き、治安管理局に行くのだ。
そして今取調べを受けているであろうリィシナに真相を聞くのだ。
昼間、ルイジェルに言った。フェルゲートと今回の事件の関係について。
しばらく呆けていたルイジェルだったが、それが冗談ではないとわかると、眉を吊り上げてロイの頬を引っ叩いた。
そして一言「貴方はこの数日間、何を見ていたのですか?」とだけ言い、テントから走り去っていってしまった。
確かにそうだ。
この数日間、リィシナのそばに一番いたのは自分だ。そしてそこから導き出された答えも、
もう出ていた。しかしそれも崩しかねないことが起きたのだ。今までの彼女を見て、
全てを理解できるほどロイは単純でも器用でもない。わずかなほころびがあれば、疑ったりもする。
だがルイジェルの言ったことは、重く、そして全てだったのだ。それも確かだ。
だからロイはますますどうしていいのかわからず、街中を放浪していた。
いっそどちらかに一気に傾いてしまえば楽になれるだろう。
リィシナをとことん追い詰めるにせよ、とことん守るにせよ、一つ道が決まってしまえば、どんなに楽なことか。
ああ、そうか、とロイは気づいた。
自分は不器用な人間だ。今までだってこんなに思い悩むことはなかった。こうして悩むことに慣れていないのだ。
だからその処理の仕方に困る。どうしていいかわからない。
人生で、本気で悩む人間の気持ちがわかり、何だか一つ成長した気分になったが、なったところで、本題は何一つ解決もしない。
悩んでいる限りは、一つも前に進まないのだ。
考えているだけで気分が滅入ってきた。
苛立ちと倦怠感が身体を包んでくる。
もういい。このまま家に帰って寝よう。寝て起きたら、何か変化があるかもしれない。
そう思い、自分の家へと踵を返した、その時だった。
夜の闇にまぎれて、道の向こうに「何か」がいた。
そう、いた。いつからそこにいたのかもわからない。もしかしたら、街の誕生以来、ずっとそこにいたのではないだろうかというほど、
それの存在は自然すぎた。
今ロイがいるのは、人が二人並んでやっと通れるほどの、狭い路地裏だ。人の顔をあまり見たくないので、
わざわざ選んだルートである。街灯もなければ、家の窓からの零れる光もない。ただ空からの天然の明かりのみで、
なんとか道の輪郭を確認できる程度。
そんな道に人がただ立っている。
おそらく黒いローブかマントかを羽織っているのだろう。全身が暗闇にまぎれて、ひどく希薄だ。ただ銀色の髪に白い顔。
そして紫色に輝く双眸のみが、闇に映え、ただそこに浮かんでいるように見えた。
何かおとぎ話に出てくる、吸血鬼のようないでたちだな、とロイは第一印象でそう思った。
だが、刹那の間にそんなのんきな考えは捨て、警戒態勢に入る。
ここは人口十万を数えるザフトス市だ。変わった奴などごまんといる。しかし、
目の前にいる男のように、見ただけで鳥肌がわいてくるような、強烈な殺気を放つ人間は極少数しかいないだろう。
わざとらしすぎる存在の主張だ。存在は希薄なのに、猛烈にアピールしている。その矛盾がさらに男の奇妙さを際立たせる。
「幻影対策係PASだな?」
夜の闇によく響く美声で、男は言った。
「だとしたら、どうするんだ?」
もう酔いは感じない。気だるかった身体は、すでに敵への迎撃体勢へとシフトしている。
右足をゆっくりと後ろにずらし、全身の筋肉に準備の指令を送る。
男は微動だにせず言った。
「悪いが、死んでもらう」
――次の瞬間だった。
ロイから数メートル離れた所にいた男の姿が、フッと消えた。煙のように、まるで最初からそこにはいなかったかのように。
そして背後に現れる獰猛な殺気。
ロイはほぼ反射的に、地面を転がり、その直後に放たれた鋭い一閃をかわしていた。
驚く暇もない。そんなことをしていたら、今ごろあの世行きだ。
背に担いでいたホルスターからソードを抜き出し、構える。
男が消え、自分の背後に現れるまでの時間は、コンマ何秒かの世界だ。
いくら超人といえど、数メートルの距離を、敵に気づかれずに縮め、後ろに回りこむなんてことはできやしない。
だとしたら原因は一つだった。
必殺の一撃を完璧にかわれたことで、男はわずかに驚いたようだった。
マントから出た腕に装着されていた、三本の鋭利な爪を下げ、目をスッと細める。
「驚いたな、流石はPASといったところか」
「おまえ、幻影使いだな? しかもCスチームを散布する手際も見えなかったし、幻影の発動が自然すぎる。相当な使い手だ」
「ペイン=セド。それが私の名だ。この街ではそれなりに知られているのではないかな?」
ペイン=セド。勿論知っている。
数年前にこの街に現れ、幾多もの殺人を犯してきた大幻影犯だ。
その時のロイはPASのメンバーどころか、治安管理局職員でもなかったが、新聞で見た「PAS敗れる」との見出しは、
今でも鮮明に脳裏に残っている。
当時最強集団と言われていたPASだ。街の少年のほとんどが憧れる存在。そのメンバーの一人と対峙し、
そして殺害した「ペイン=セド」の名は、否が応でも記憶から離れることはなかった。
「確か『黒き凶風』だったな、ずいぶん大物が出てきたじゃねぇか。俺たちPASを狙う理由はなんだ? 数年前の戦いなら、
おまえが勝ったはずだろう?」
「あいにく私は『殺し屋』でね。いわばただの雇われの身でしかない」
「俺たちを消せと指令した奴がいるということか。気にいらねぇな、暗殺とかこすい真似しやがって。堂々と正面からくればいい」
「だから私がきた。おまえも正面から堂々と殺されれば、何の文句もないだろう?」
「殺されればな!」
言うや否や、ロイはダッシュした。
ソードを下段に構え、ペインに向け猛獣のごとく突進する。
暗殺者のようなタイプには、待ち受けるのは不利だ。相手が幻影使いであるのなら尚のこと。後手に回るのは愚の骨頂だ。
ソードを振り上げ、ペインの右太ももを狙う。武器で迎撃しにくい場所だ。
それでもペインは手甲にはめられた鉤爪でソードを受け止め――、
「なっ!」
ロイの放ったソードが、爪を通り抜けた。それどころかペインの足をも通りぬけ、
両断だれたペインの身体が空気中に霧散していく。
――幻影!
瞬間、脳に根付いた驚きを殺し、ペインの殺気を探ることに専念する。
現れたのはまたも背後。振り返りさまソードを振るうが、それさえも貫通した。手ごたえがまるでない。
またも幻影。
ダメだ。思考と行動が追いつかない。
幻影の気配がリアルすぎる。まるで本物であるかのように、殺気もたっぷりと含んで現れる。
これではコンマ数秒の世界でのスピード勝負では、分が悪すぎる。
あまりに鮮やかなペインの幻影に、ロイは翻弄された。
次々と背後に現れるペインの幻影。幻影とわかっていても、そこに殺気があるのだから、迎撃せざるを得ない。
手を抜いてもしも本物だったら、そこがロイの命が終わる時だ。
もう何度目だろうか。再びロイの後ろに現れたペインを斬り払おうと、ソードを上げたその時だった。
ふと目の前の空気が歪み、そこにペインが現れた。
――しまった!
背後と目の前。二つのペイン。突然放たれた変化球に、ロイの思考が一瞬乱れる。
二つのうちどっちが本物だ?
少し考えればわかるはずだ。
どちらも囮であり、本物ではないことに。
しかし極限の世界で動いていたロイの頭は、そんな単純なことも考えられないほどに、磨耗されつくされていた。
二つ同時の幻影への迎撃をあきらめたロイは、強靭な脚力でその場から飛びのき、着地したそのすぐ後ろにペインはいた。
きらりと、光の届かない路地裏に、三筋の光のラインがきらめく。
――だめだ。間に合わない!
不意に脳髄に響く衝撃。それに抗えることもなく、ロイは前のめりに転がり倒れた。頭が揺れる。
すぐに立ち上がらないと殺られるとわかっていても、身体が脳の指令を受け付けない。
脳震盪だ。強力な衝撃を後頭部に受けたのだ。頭蓋が砕けなかっただけでも幸いととるべきか。
それでも彼がトゥルース・ソードを手放さなかったのは執念のなせる業だ。
「やれやれ、狙いを外したか。首筋をかっ切ってやろうと思ったんだがな。あの一瞬で、
急所だけは守ったな。やはり流石はPASといったところか」
くくく、と低い笑みをこぼしながら、ペインがロイの前に現れる。
「くそっ……たれめっ!」
頭が揺れる。視界も歪む。まるで自分が水溶液の中に放り込まれたような感覚だ。
消え行く意識と、深い眠気に似た欲望をなんとか跳ね除け、ロイは頭上で笑う暗殺者に悪態をつく。
ロイが倒れ、動けなくなった瞬間にとどめを刺さなかったのは、単純に彼の性癖によるものだろう。
獲物がもがき苦しむのを見て楽しむタイプだ。
必死の形相で起き上がろうとするロイを踏みつけ、ペインは彼を舗装の上に押さえつけた。
その圧迫で、ロイはさらに気が遠くなる。
「悪く思うなよ。お互い仕事だ。運が悪かったと思うことだ」
ペインは左腕の鉤爪をロイの頸動脈に当てる。暗殺者らしからぬ雰囲気を楽しむような行為は、
彼のまた別の嗜好を表していた。冷徹な内面が肌を通して伝わってくる。無機質で金属的な冷たさが、
ロイには可笑しくも涼しく感じられた。
「遺言はあるか?」
口元が歪んでいる。殺しをすることに最上の喜びを感じている。冷酷で感情など何もないと思っていたが、
実は結構な激情家なのかもしれない。
こんな時にも冷静に分析してしまう自分に笑いつつ、暗殺者のブーツに唾を吐きかけた。
「クソして寝ろ……」
その時脳裏に浮かんだの一人の少女の姿と、その顔。そういえば笑ったところをあまり見たことがなかったな。
尚も悪態をつくロイに、ペインの無慈悲な一撃が振り下ろされて――。
治安管理局六階、SEMSフロアの応接室。そこにリィシナはいた。
数日前にも来たことがある。工場爆破事件に巻き込まれ、医務室に巻き込まれた自分を迎えにきた姉がいた部屋だ。
あの時はゆっくりと見ることはなかったが、こうやってゆっくりと眺めると、立派な部屋だった。さすが客人をもてなす部屋だ。
そう、客人を。
学校で覚えのない罪を被され、拘束されて連れてこられたのがここだ。車に押し込められた時は、
自分がどんな目に遭うのか、ひどく怯えた。
だが局に着き、六階に上がり、その先に待っていたのは、何てこともない、ただの応接室だった。
広さはいつも使っている教室の半分ほどだろうか。床には絨毯が敷かれていて、白で統一された壁と天井に、
茶色のソファが三つ。それに囲まれるように大きなテーブルが一つ。その上にはコーヒーカップが置かれていた。
自分に出されたものだ。
おかしい。
本当に拘束された犯人は、いつもこんな緩い扱いを受けるのだろうか。もっと狭い取調室に連れていかれ、
そこで未明まで厳しい取調べを受けるものだとばかり思っていた。
いや、実際そうなのだろう。いくらなんでも今の自分の異常性には気づく。
手錠をされるどころか、監視する人間すらいないのだ。
ただこの部屋に入れ、コーヒーを出し、しばらくゆっくりしていろと、
それだけ言ってパースと言う女性は部屋から出ていってしまった。そして今に至る。
かれこれ二時間は経っただろうか。その間リィシナはただぽつんとソファに腰掛けていただけだった。
思い出すのはロイの姿ばかりだ。まるで恋をしてしまった娘のように、ふと思いをめぐらすと、リィシナの目の前にはロイがいた。
ロイの苦しそうな、悔しそうな顔。そればかりが思い出される。
思い返せばいつも笑顔ばかりだった。朝、自分を出迎える時も、登校途中も、下校時も、
そして別れる時も、決して笑顔を絶やすことはなかった。
すっかり笑顔を失っていたリィシナにとって、それは鮮烈すぎて、最初はそれが不快だと思っていた。
しかし自分が求めていたものだったのだと気づくと、もう歯止めが利かないほどに、彼に惹きつけられていた。
笑顔が似合うと思う。世界一とはまでは言えないが、少なくとも自分が出会ってきた人間の中では一番。
そんな彼が見せた苦悩に満ちた表情。その苦しみがこちらまで伝わってきたほどだ。
だからそれだけでいいと思った。彼がその表情を見せただけで充分だと。
彼女にはわかっていた。確かに自分を信じられなくなっているだろう。しかし信じようとしてくれていることも確かだ。必死に。
リィシナにとってはそれだけで本当に充分だった。あとは自分が彼を信じていればいい。
必ずもう一度現れる。そして私の無実を証明し、ここから救い出してくれるのだ。
応接室とSEMSフロアを結ぶ戸が開いた。
見ると、入ってきたのは顔立ちの整った青年だった。確か「ディル」といったか。
彼はリィシナを見ると、微笑んでコーヒーのおかわりはいるか、と聞いてきた。
それを柔らかに断ると、微笑を崩さぬまま、ディルはリィシナの向かいのソファに腰掛けた。
「身体の調子はどうだい? どこか悪いとことかある?」
顔に合った、優しい声と口調だった。世の女性が夢中になるような甘いマスクとよく合っている。あいにく、
リィシナの好みのタイプからは外れているが。
「いえ、大丈夫です」
「そうかい? よかった」
ディルが手に持っていた書類をテーブルに置き、ふっと短くため息をついた。
「不自由かけてごめんね。何かあったら遠慮しなくていいから言ってね」
この言葉にも違和感を覚える。
なぜ犯罪人であるはずの自分にこんな客人並の扱いをするのだろうか。ましてや、パースの言い分では、
自分は校舎を爆破し、人を何人か死に至らしめた大犯罪人のはずだ。
考えが顔に出ていたのだろうか、ディルが苦笑した。
「君の考えてることはわかるよ。何でこんなに扱いがいいのだろうかってことだろう?
あいにく僕にもわからないんだ。全部パースと係長が決めてしまったことだからね。だから僕たちPASメンバーは、
何が起きているのかちんぷんかんぷんだよ」
「でも、私は幻影犯だと……」
「そうだね。もしそうだとすると、今ごろ局の地下にある独房に入っているよ。でもそうじゃないところを見ると、
少し事情が複雑なようだね」
やはり今の自分の状況は異常のようだ。では自分がここに連れてこられた理由は何だ?
「僕に聞いても何もわからないよ。僕はただパースに君を見張っておくように言われただけさ。参っちゃうよね、
僕も仕事がたんまりあるっていうのに」
この部屋に持ってきた書類はその仕事の一部だろう。
PASメンバーは少数しかいないと聞いた。
幻影事件が起きた時は、その少数で処理しなければならないのだから、忙しくなるのは当たり前だ。しかも今は、
数日間で数件と、事件は頻発している。仕事量は激務と言って差し支えはないだろう。
「ご苦労様です」
皮肉ではなく、本心からそう言うと、ディルは「ありがとう」と笑った。
「あの」
「うん? なんだい」
「その、ロイは……?」
その名が出ると、ディルの表情が陰る。そしてバツが悪そうに言った。
「彼は病院だよ。何者かに襲われたみたいでね、ついさっき病院から連絡があった」
「お目覚めか?」
目覚め一番、刑事課の同僚、ブラスが神妙な顔つきで覗き込んでくるので、ロイは横向きに寝転がった。
寝台のギシギシと軋む音は、たまに世話になる局の医務室のそれと似ている。白い掛布のざらざらした肌触りも似ているし、
枕の堅さもそっくりだ。
「俺は助かったのか……」
「あんま動くなよ。まぁそんなに大したもんじゃないみたいだけどな」
そこは病院の一室だった。
真っ白な清潔感たっぷりの部屋だ。ベッドが四つほど配置されているが、そのうち稼動しているのは二つであり、
つまりはロイとブラスのベッドだった。
ブラスは以前の工場爆破に巻き込まれ入院したが、すっかり回復し、今では普通に歩けるまでになっている。
話を聞くと明日には退院らしいので「おめでとさん」とだけ言っておく。
ブラスは安心したように表情を弛ませた。
「驚いたぜ。突然おまえが担ぎこまれてきたんだからな。また無茶やって死に掛けたのかと思ったぜ。
そしたら頭打って脳震盪だって言うんだからな。おまえ変なところで抜けてるよな」
ロイが部屋の中に備え付けられている鏡に目をやると、頭にしっかりと包帯が巻かれていた。
その他には特に異常はなさそうだ。地面に倒れた時に負ったと思われる擦り傷も、しっかり治療してあった。
「襲われたんだよ」
「誰に?」
「ペイン=セド」
その名を出した途端に、ブラスの表情が凍りついた。
やはりペインの名は、この街では万人共通らしい。
「マジかよ、おまえよく生きてられたよな」
「俺もそう思うよ」
今まで幻影を目くらましに襲ってきた犯人は数多くいたが、ペイン=セドのそれは、明らかにキレが違っていた。
まさに別次元の敵だ。しかし彼には、あの時ですらもまだ手を抜いていたように見えてならない。
ブラスは慰めにもならないことを言ったが、その言葉は事実でもある。彼は殺されなければならない状況だった。
地面に張り付けられ、鉤爪を首根っこに当てられた。そんな場面から生還できたのは、最後にペインが退いたからだ。
その理由は……。
「なあ、俺をここに運んだのは誰だ?」
ペインほどの暗殺者が、標的を見逃し退くのはよほどのことがあってのことだ。彼ほどの腕があれば、
目撃者も消して逃げ切ることもできるはずだった。それもせずに、ただ退いたとなると、彼と何らかの接点がある人物に違いない。
ならば、その人物からペインの背後関係が探れるかもしれない。
そう考えて問いかけたロイに、ブラスは少し表情を明るくした。
「ルイジェルさんだよ」
「ルイジェル……?」
予想外の名だ。彼女は校庭で一度別れた。それがなぜあんな路地裏に現れる? こんな夜遅い時間に。
いや、それよりも、もしもルイジェルとペインに何らかの関係があったとしても、ペインがそこで撤退する理由が見つからない。
パースの言っていたようにフェルゲート家が黒だというのなら、ペインはフェルゲートが放った刺客と見るのが妥当だ。
そしてルイジェルとは味方関係となる。
フューゲルが何かよからぬ事を計画しているとして、PASが邪魔になり、ペインを放つ。
そこまではいい。しかし、ルイジェルがそこに現れ、暗殺を止めるメリットなど、どこにもない。
そして自分を病院に運ぶことにも。
「うっ……」
ロイは引っかかりを感じた。
何かが頭の隅に引っかかる。違和感だ。筋が通っていそうで通っていない現在の状況。
小さな引っ掛かりで、どうしてもそこから先に進むことができない。
考えろ。どこかがおかしい。パースのリィシナ逮捕という決断と、フェルゲート家首謀者説。全ての事件に遭遇していたリィシナと、
事件の度に起きる、彼女の不可解な行動。PASを狙うペイン=セド。ロイの命を救ったルイジェル。
この全てが点と点とで結ばれるようで、どこかが歪んでいる。そう、おかしい。誰か、何かがおかしいのだ。
「いやぁ、しかしルイジェルさんは美人だなぁ。妹さんのリィシナちゃんも可愛かったけど、俺はルイジェルさんの方が好みかな。
あれは局の男達がほっとかないぞ」
一連の事件を一切知らないブラスは、のんきにそんなことをのたまっていた。
そんな彼を恨めしそうに睨み、ロイはため息を一つついた。
考えても答えは出てきそうもない。ピースが一つ欠けている。それも決定的な。
それでは仕方がないので、ロイは今夜だけはゆっくりしようと、身体をベッドに預けたのだった。
リィシナ逮捕。
この事実はフューゲルに大きな衝撃をもたらせた。
今まで二度の幻影事件によって、目をつけられていたリィシナだが、それも証拠不十分ということもあり、
監視付という緩い処分になっていた。
PASの動向も、ここ数日では小康状態になっていたのだが、三度目が起きたことでついに決断したようだった。
元々わずかにでも疑惑の目が向けられていたのだ。今回の事件で決定打となったのだろう。
フューゲルは思わず、怒りと苛立ちに任せて、机の上にあるものを薙ぎ払った。
三度事件に巻き込まれてしまう愚かな娘のこともあるが、
それよりも連日リィシナに幻影事件を仕掛けてきている謎の幻影使いの存在だ。
いったい誰だ。こんなことをして何になる。
元々自分に疑惑の目を向けていたPASが、陽動としてリィシナを捕まえる口実が欲しく、起こしたか。いや、違う。
ただそれだけのために、前途有望な若者が通う学校を爆破するはずがない。それに今回の事件では死人も出ているという話だ。
いくらなんでも、街の治安を守る組織がやることではない。
だとしたら、こんなことをして得をする人物などいるのだろうか。
不運と言えばそれで片付けられるかもしれないが、同じ人物が、
それも今回の「計画」の中枢を担う少女が連続で襲われたのだ。これは明確な妨害行為である。自分に向けられた敵意だ。
フェルゲートカンパニーに不満を持つ敵対勢力か、それとも――、
「随分ご立腹だな」
ハッと気づくと、フューゲルのすぐ横には、黒装束に身を包んだ暗殺者、ペイン=セドが立っていた。
いつからそこにいたのか、この男が現れる時は、必ず気配を感じさせない。気づけばそこにいるのだ。最初は驚いていたが、
それが暗殺者として、大きな頼もしさでもある。
フューゲルは影のような暗殺者に一瞥だけすると、背もたれに身を預けた。
「とうとうPASに一人取られてしまった。それも最も重要な奴だ。ここまでネチネチ妨害され、
挙句の果てにこれだ。腹も立つというものだ」
「だから私を動かしたのだろう? こうなったからにはもう悠長なことをしてられないからな。最も邪魔なPASを消し、
計画を実行に移す」
「そうだ。だが勘違いするな。邪魔だからPASを消すんじゃない。リィシナを取り戻すためにPASを消すんだ。
むしろあいつさえ戻れば、誰も殺さなくてもいい」
「くく、そんなにあの娘が大事かね」
「他の奴は代えが利くが、あいつは特別だよ。おまえも幻影使いならわかるだろう? まったく、忌々しい。
リィシナさえ妙な行動をとらなければ、元々目をつけられることはなかったんだ」
「くく、なら話しておくことだな。その『計画』とやらを。それで反抗するのなら、例の薬でもなんでも使って、
強制的にただの人形にしてしまえばいい」
「ことはそんな単純なことではないのだよ。計画を話していい子といけない子もいる。きっちり見分けて処理しなければ、
『計画』はうまくいかないさ」
ペインは可笑しそうにフューゲルを見ると「そんなものかね」とだけ言って黙った。
「どちらにしても、明日動くぞ。部下にもすでに伝えた。少し早いかもしれんが、これ以上は無理だ。
『計画』は明日の夜に決行だ。おまえ達もそのつもりでいろ」
そう言って部屋の入り口に目をやったフューゲル。
そこにいたのは、フューゲルが養子として向かえた兄弟たちだった。どの顔にも感情の一欠けらもなく、
ジェミニ特有の紫色の瞳は、どんよりと濁っている。うつむき気味にその場に立ったままの少年と少女。ただその中に、
リィシナとルイジェルの姿は入っていなかった。
第6章 計画