第六章 計画

 翌日、夕暮れ時になってようやくパースは戻ってきた。何事もなかったかのように、いつのものように。
今までどこに行っていたんだという同僚の質問に、ただ「事件の調査よ」とだけ答えて、パースは相変わらずの無表情で、 フロアと応接室を隔てるドアのノブに手をやった。
「彼女の様子はどう?」
 こちらの質問には全く答えないくせに、逆に質問はしてくる。そんな身勝手なパースにため息をつくディル。
「君が何も教えてくれなかったせいで、ずっと困惑してるよ。もちろん僕たちも」
 彼の小さな皮肉に「そう」とだけ頷き、パースはドアを開けた。
 室内には、ソファにちょこんと座っている少女の姿のみがあった。
 その横に毛布が綺麗に折り畳まれている。ここで寝泊りをしているのだ。パースが指示したことだ。 年頃の少女には少々辛いことだろうが、リィシナの血色はいい方だった。案外図太いのかもしれない。
 自分の顔を見るや、姿勢を直すリィシナ。緊張を隠せない様子で、表情は強張っている。
 どうも苦手とされているみたいだ。苦笑いを浮かべるも、それを心の内側にだけ反映させ、外面的には鉄壁の無表情で、 パースはリィシナの対面にあるソファに腰掛けた。
「お身体の加減などは如何ですか?」
「はい、とてもよくしてもらって……」
 自分で言っていて、おかしいと思っているのだろう。語尾を小さくしてリィシナは黙った。 恐らく昨日からずっと考えてきたことだ。
「何か不自由はありませんか?」
「はい。……でも、なぜでしょうか? 私は逮捕されたんですよね?」
「そうですね」
 書類に目を落としたまま答えるパース。
「なら、なんで私の扱いがこんなにいいんですか? ここに連れてこられて、コーヒー出されて、 ことある毎に身体の調子を気遣われて、食事も私の言った通りの物が出てきます」
「では、地下の独房に入れれば満足と?」
「それは……」
 わずかに凄みをきかせたパースの言葉に、リィシナは一気に萎縮してしまった。
 ここでパースは微笑み、「冗談です」と言った。
「貴方が聞きたいのはそういうことではないでしょう。『なぜ身に覚えのない罪で私が逮捕されなくてはならないのか』」
 ハッとリィシナは顔を上げた。
 パースの言い方にはおかしなところがあった。
 身に覚えがないと。
 知っているのだ。リィシナが本当に身に覚えがないことを。
 ではなぜ――、
 リィシナが疑問を口にしようとして、それよりも早くパースが口を開いた。
「昨日、私が言ったことですが――」
 昨日――。爆破された学校の校庭で、リィシナに告げた、フェルゲート家首謀者説。
「私は犯人じゃありません。信じてください」
 無駄だとわかっていても、自分の潔白を訴えるために、リィシナはここからの解放を求めたが、 尚も無表情なパースから帰ってきた返答は、彼女にとって完全に予想外なものだった。
「わかっています」
「え?」
 リィシナが思わずキョトンとする。
「昨日、私が言った、貴方の父、フェーゲル=フェルゲート並びに、フェルゲート家首謀者説ですが、あれは半分は真実で、 半分は偽りです」
 話を理解できないリィシナに、パースは言葉を続ける。
「つまり、『フェルゲート家は黒』『リィシナ=フェルゲートはグレー』ということです。ああ、これだと、 四分の三が真実になりますね」
 そんなどうでもいい付け足しは耳に入れなくてもいい。
 いったい、この人は何を言い出すのだろうか。
「そうですね、何から説明したらいいでしょうか。あの工場爆破事件から、我々PASは事件解明のために捜査をし、 ある薬の存在に行き当たりました。その薬は普通の人間に使ったところで、何の効能もありません。 しかしそれをファントマビリティを行使できる、ジェミニが服用すると、イメージ力をアップし、 幻影能力を飛躍的に高めることができることがわかりました。ただし、この薬には恐ろしい副作用があり、 服用した者を廃人同様にしてしまうというもの……」
 突然薬の話をしだすパースだが、そんなことになど心当たりがあるはずもないし、 第一今回の一連の事件と何の関係があるのだというのだろうか。
 頭の上に?マークを連発し、見る見るうちに険しい表情になっていくリィシナ。
 それされも意に介さず、パースは説明を続けた。
「副作用は恐ろしいが、得られる効果は絶大で有益だ。そう考えたある幻影犯は、 なんとかこの薬を使えるようにならないかと、色々と研究を重ね、ついに活用法を見つけ出します。その活用法とは――」
 パースの双眸が細められた。深遠な紫の瞳は、リィシナの姿を映し、そして離さない。
「まだ未発育な子供に服用させるというもの」
 ドキン、とリィシナの心臓が大きな鼓動を刻んだ。パースから言われても、まだ心当たりがなく、 はっきり言ってわからない。しかし自分の深層心理がそれを理解しているかのように、そして身体自体が意志とは関係なく、 それに反応したかのように。
 知らぬ間に左胸を打つ心臓の鼓動が、考えられないほど早くなっていた。それに気づくと、 呼吸に苦しくなってきた気がするのだから不思議だ。
「その薬は、成人しきってしまった大人の身体には、拒絶反応が強すぎる。しかし子供になら、多少の副作用はあるが、 日常生活に支障をきたすほどではない。ならば、小さなうちから少しずつ薬に慣れさせていき、 ちょうど大人として身体が成熟しきる前、つまり十代半ばからその後半で、 普通では考えられない幻影能力を身に付くようにする。これがその幻影犯が考えた、足かけ十年以上にもわたる壮大な薬の活用法」
 パースがテーブルの上に両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せる。
 その先で呼吸が激しくなり、苦しげにしているリィシナを見ているはずだが、それを助けもしない。 傍らに立っていたディルが見かねてリィシナに寄ろうとしたが、パースはそれを片手で制した。
「ここまで言えばもうおわかりになるでしょうか?」
 胸が苦しい。まるで彼女の質問に答えるなと言っているようだ。そう、答えてはいけない気がした。身体全体が、 意識の底が、それを拒否している。
 今まで血色のよかった顔は、血の気が引き真っ白になり、しわが寄せられた眉間には脂汗が滲み出す。
「貴方が工場爆破の時点で、なぜ記憶が失われたのか……」
「やめ……て……」
「なぜセントシルエス女学院爆破の時、記憶がなかったのか……」
「……めてッ」
「貴方が、――なぜフェルゲート家に養子として引き取られたのか――」
「やめてぇぇッ!」
 感情が言うことをきかなかった。内部に溜め込んでいたガスが爆発したかのように、リィシナは耳を塞いで、頭を激しく振った。
 ディルが慌ててリィシナに寄り添う。
「パース、ダメだ。これ以上は!」
「いいえ、彼女は真相を知らないといけない。だって、その権利があるのだもの」
「しかし――」
 パースはリィシナの横に席を移し、彼女の手をそっと握ってやる。優しく、なるべく彼女を傷つけないように。
「リィシナさん、受け入れるのはつらいかもしれない。でもこれは事実よ。受け入れないといけない。 そしてこれ以上あの家にいてはいけない」
「お……、父さんは……、お父さんは……」
「彼に関しても調査をしたわ。彼はジェミニの子を養子にすることで知られる慈善富豪として知られていた。しかし、 私は疑問に思ったの。今の貴方達兄弟が養子になる前にも、養子として引き取られた子供がいるのにも関わらず、 その子供たちは例外なく、奇怪な死を遂げている。ある者は発狂した末に自殺し、ある者は友人と笑って話していた直後の突然死。 当時治安管理局も不審に思い調査をしたのだけれど、それ以上の証拠はどこにも見つけることができず、 その時はそれで調査が終了してしまった。しかし今ようやく点と点とが繋がったの」
 うまく呼吸ができずに、咳き込み続けるリィシナは、瞳に涙をためつつ、パースの顔を必死に見上げ、 懇願するかのように言った。
「それじゃぁ、それじゃぁ、兄さんや姉さんは? ラング兄さんに、ロベッツ兄さんとレベッカ姉さん……」
 そしてリィシナが最も心許した姉、いつも優しく微笑んでくれていた、大好きな姉。
「ルイジェル姉さんは、もう?」
「残念ながらすでに薬漬け……、もしくは廃人か、どちらにしても、通常生活への復帰は不可能でしょうね」
 絶望的で、無慈悲なその言葉を全身に浴び、リィシナの意識はクラリと遠のきかけた。それは自意識が遠い所へ行こうとする、 一種の自己防衛のものだったのかもしれない。
 ディルに抱き起こされ、震える手でなんとか身体を支える。
 そして最も答えを聞くのが怖いことをパースに尋ねた。
「私は……、兄さんや姉さんがダメってことは、私も……?」
「そのことなんだけれど……」
 と、そこで応接室の戸がノックされ、SEMSの局員が顔を出した。
「パースさん、ウヌラート係長が話があると」
「わかったわ、すぐ行くと伝えておいて」
 片手を上げて応えるパースに、局員はすぐに頭を引っ込めた。
「あとの事はまた後で説明するわ。貴方がもうちょっと落ち着いてからね」
 もはやパースを見もしないリィシナの身体は小刻みに震えていた。現実から逃げるように、 しかし必死に現実を受け入れるかのように、リィシナはその身体を震わせ続けた。
「とにかく貴方はあの家にいては危険だわ。だから私たちは貴方を逮捕と見せかけて、 保護したの。本当ならば、兄弟まるごと保護をしたかったけれど、一気に動くと、 フューゲルも焦ってどんな行動に出るかわからないわ。貴方のお兄さんやお姉さんは順次保護していくつもりよ」
「本当……ですか?」
「ええ、それにフューゲルがどんなことを企んでいるのかはわからないけれど、 よからぬ事を考えていることは確かよ。そう考えると、ここが一番安全なの。だからしばらくは不自由が続くでしょうけど、 我慢してちょうだいね」
 優しくそうリィシナに語ったパースは、リィシナの頭をぽんと撫で、応接室から出て行った。 不思議なもので、彼女にそう言われると、身体の緊張がスーと解けていくのがわかった。 本当にここが安全で、暖かい所のように思えてくる。
 色々と衝撃的なことを知らされた。自分は父フューゲルに、幻影兵器となるために養子に迎えられ、 同じく養子となっていた兄や姉たちはすでに薬漬けで手遅れなのだという。上の二人の兄や、 長女とはあまり話したことがなかったが、フェルゲート家に来た当初から、面倒をよく見てくれた、 ルイジェルまでもが、薬で後は廃人になるのを待つだけだと聞かされて、リィシナは大きなショックを受けた。 自分が薬漬けにされていたことをよりも、もしかしたら衝撃だったかもしれない。
 未だに完全には信じられない。あんなにも元気でいつも微笑みかけてくれていた姉が、廃人になる寸前だというのだ。 子供であれば、副作用は抑えられるとはいえ、幼少時から薬の投与を受けてきていたのだから、もう限界寸前だろう。
 待つ未来は、絶対的な絶望。情け容赦のない事実を突きつけられ、リィシナの心は否が応でも沈んだ。
しかし、パースからもたらされた情報は、暗い話題だけではなかった。自分は逮捕されたのではなく、保護された。 やはり自分は悪くなかったのだ。
記憶を失くし、その間幻影事件を引き起こしていたのは、恐らくは薬によるものなのだろう。自分の意志ではないが、 幻影事件は発生させた。だからパースは「グレー」と言ったのだ。それならば仕方がない。 ロイが自分に疑念を持つのは仕方がないのだ。
だから帰ってきていいのだ。今まで通り、ロイが自分に茶々を入れ、自分がロイに呆れながらため息をつく。 そんな日常が帰ってきても。
自分の父や兄姉が事件の首謀者ということで、これから自分を取り巻く環境がどうなっていくのかはわからない。
しかしリィシナは感じていた。ザフトス市に引き取られてから、これまでの数ヶ月間よりは、 絶対に明るい未来が待っていることを。屈託のない笑顔を見せることができることを。
さっきまで残酷に押し寄せた現実から逃げるようにしていたリィシナの身体から、震えが止まったことにディルは気づいた。 そしてわずかにも、その宝石のような紫色の瞳に、強い意志が込められたことにも。

それから二時間ばかりが経過した。
日はすっかり暮れ、眼下に広がる家々の窓からは、生活の灯が漏れ、仕事帰りの男達の酔った声が聞こえてくる。 街はいつもの夜の姿を見せていた。
終業時刻を過ぎたSEMSフロアからは、人の姿は少なくなりつつある。その各々が、帰りに飲みに行く話や、 夕飯の話をして、業務の緊張感から解放された賑わいを見せていた。そのフロアの一角に、全く違った、 重々しい空気を放つオフィスがある。
PASである。
そこにいるのは、パース、バードック、ディル、ウヌラートの四人。ロイは未だ入院中で、 メルは隣の部屋にいるリィシナの相手をしている。
「まあ、というわけだ。大規模な計画なので、できるだけ日程は変えたくはなかったが、 時期が時期だからな。今PASメンバーを減らすわけにはいかん」
「そうですね。ではコルトニウム、トロス運搬は来月に延期ということで」
 パースが書類をトントンと整理し、端をクリップでとめた。
 二人を欠いたたった四人の会議では、コルトニウムの、隣町トロスへの運搬の延期が話し合われていた。
 二年間にわたり、幻影犯から押収されたコルトニウムを、専用処分工場があるトロスに運ぶ計画。 これには運搬する物が物だけに、護衛には最低一人はPASが同行することになっていた。しかし隣町トロスまでには、 最新鋭の蒸気機関車を使っても片道三日、帰りと現地での手続きもろもろをふくめると、 最低でも一週間はザフトス市から離れることになる。
 現在大規模な幻影事件が連発しており、尚且つこの先、さらに事件が起こる確率が高いことを考えると、 今PASが一人でも欠けるのはどうしても避けたいことだった。
 本当ならばトロスへの運搬は今日行なわれるはずだったのだが、そういう理由もあり、今朝、 上層部の会議で延期が決定したのだった。
 この業務は過酷であることで知られている。それをこんな忙しい時期にやらなくてはならないのか、 と懸念していたPASメンバーは、内心安堵の息を吐いた。
 会議がひと段落ついたところで、ディルはオフィスに備え付けてある時計に目をやった。
 午後六時半。会議を始めて一時間が経っていた。
ディルはオフィスを改めて眺めてみる。パースは自分の席で、小休憩のつもりなのだろうか、 引き出しから取り出した箱からケーキを取り出し、つついている。
「パース、帰らないのかい?」
「ええ、この時期に、帰ってのんきに寝てられないわ」
 のんきにケーキを食べているのは誰だと思いながらも、ディルは苦笑しつつ席に着いた。
 ――と、突然パースが、フォークを皿の上に置き、顔を上げた。
 何かを察知した猫のような動きに、PASのメンバーの視線が集中する。
「どうしたんだ、パース」
 係長の問いかけに、パースはしかし答えず、代わりとばかりに表情を徐々に険しくした。
 チリチリと、本当にその様子は、外敵と出会った猫のようで、彼女の警戒心がよく伝わってくる。
「足音が消えたわ。途中で、それも完璧に……」
 言って彼女はフロアの入り口を見る。つられて、フロア内の視線がそこへ集中した。
その直後、ドアが開けられ、男が現れた。季節はずれの黒装束姿の男。
「失礼。PASのオフィスはここだ、と聞いたのだが……」
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
ディルが立ち上がって、応対しようとする。それをパースとウヌラートが同時に制した。
不確かだった彼女の警戒心は、オフィスに現れた男の姿を見て、確固たるものに変化したようだった。
オフィスにいる人間の中に、見知った顔があるのに気づいたのか、男はパースとウヌラートの顔をゆっくりと見回すと、 不意にニヤリと口端を歪めて名乗った。
「ペイン=セド」
直後、PASオフィスの通路側の壁が爆発を起こした。
「ぬぉう!」
指向性爆薬の炎と砕けた壁の破片が、一番壁に近かったバードックに直撃する。
衝撃がフロアを揺るがし、オフィス一帯のデスクや椅子が反対側の窓にまで吹き飛んでいった。 ガラス窓の破片が外側に飛び散る。その場にいる者すべてが、その爆発が何なのか瞬時には判断できなかった。
瓦礫の中から煤だらけになったバードックが大笑いを上げる。
「がははは! どうやら奇襲のようです!」
「うむ……そのようだな」
爆発で一緒に吹き飛ばされていたらしいウヌラートは転倒したデスクの下から言った。
「なに? どうしたの!」
応接室からメルが慌てて出てくる。その目線がある一点に止まった。
ぽっかりとスペースの空いたオフィスの真ん中に、見慣れぬ黒装束の男が立っている。顔かたちの整った、紫の瞳の侵入者だった。
ペインは不敵な笑みのままCケースを足下に叩き付けた。 瞬間的に無色透明なはずのCスチームは黒い煙状の幻影を帯び、フロア中に充満し始める。 視覚を奪うための彼が創り出した幻影である。が、その黒煙を貫くように四条の軌跡がペインに向かった。
ディルが放ったトゥルース・ナイフだ。
しかしそれは煙の向こうで弾き返されると、音を立てて床に跳ね落ちる。
もはや部屋の殆どに充満した幻影の中で、気配が動いた。いまや障害物の存在しないオフィスを走り、 それが自分の方へと向かっていると察すると、メルは警棒サイズに畳んでいたトゥルース・ランスを一振りした。 その長さを五段階まである内の二段階まで伸ばすと、彼女は間合い分の幻影を霧散させる。黒い煙の中、 その部分だけ元のオフィスが姿を現すと、次の瞬間煙の中からペインが出現した。
バットほどの長さのランスを鋭く突き出す。しかしペインは上半身をひねると、 それを器用にやり過ごす。その隙に彼女の脇をすり抜けて、応接室へと侵入した。
「ちぃ!」
すれ違った直後、メルはランスを後方のペインに向かって振る。足りないはずのリーチが一気に伸び、 その槍先が侵入者の背を追撃した。が、それは敵の衣服をわずかに貫いただけに止まり、ペインにダメージを与えるには至らない。
応接室内はCスチームの拡散は進んでいなかった。様々な障害物を踏み越えてペインが奥にいるリィシナに迫る。
――え?
男の腕がリィシナに掴みかかった。現状が理解できていない彼女は声すら出せない。
ペインは彼女を強引に引っ張ると、窓に向かって走り出した。懐から小型の球体を二つ取り出し、 立ちはだかろうとするメルと、外とを隔てる白壁にそれぞれ一つずつ投げつける。
「メル、避けろ! 爆弾だ!」
応接室の入り口からディルが叫んだ。彼女は、一瞬はそれを斬り落とそうと思ったが踏みとどまり、 球体と接触する寸前に横に跳んだ。直後、ペインから放たれた球体が炸裂し、メルの小さい身体が衝撃に絨毯上を転げる。
「くそっ!」
なんとかダメージは回避したメルは、受身を取るとすぐさまペインの方に顔を向ける。だがその悪態は、 壁に接触した爆弾の爆発でかき消された。もうもうと立ち込める煙の中、壁に人一人分ほどの穴が口を開けている。
「暴れるなよ。切り札」
リィシナが自分に向けられた言葉の意味を理解する暇すら与えず、黒き侵入者は地上六階の高さから飛び出した。
胃が浮くような不快感。ああ、自分は自由落下しているんだな、と気づくこともなく、リィシナは完全に状況に翻弄されながら、 身体全体に空気との摩擦を感じた。
そんな中でも、ペインはまるで地上にいる時と同じような仕草で、懐から黒い筒のようなものを取り出した。 よく見るとそれは大きなクラッカーのように見えた。ペインはそれを真っ暗な空に向け、端についていたスイッチを押すと、 先端から、しゅぽっ、という奇妙な音を立てて、眩い光が飛び出した。
それは緩やかな蛇行を描いて、夜の闇へと昇っていく。そして、一瞬光が明滅したかと思うと、弾けた。
経験もしたことがないような強烈な閃光。そして轟音。あまりに巨大な轟きに、空気が激しく震動したのが肌を通して伝わってきた。
――フラッシュグレネード。
 俗に言う閃光弾というやつである。基本的な原理は花火と同じだが、発色剤は使われてなく、 純粋に光と音に重点を置かれている物が多い。
 むろん、リィシナがそんなことを知っているわけもなく、突然頭上で巻き起こった発光と音に、 もはや驚きを完全に通り越してしまっていた。動悸もないし、震えがきているわけでもない。突然の激しい展開の流れに、 リィシナの思考能力は完全に止まってしまっていた。
 突然ガクンと大きな衝撃を感じ、リィシナは心地の悪い落下感から解放された。ペインの黒いマントが一瞬にして硬直し、 羽のような物に変化したのだ。巨大な翼と化した黒マントは、広がった途端、見事に風に乗り、カモメのように滑空した。 眼下の街並みは一度、目の前まで迫ってきていたが、ペインが何かのレバーを操作すると、再びグンと上昇し始めた。 レンガで舗装された道から三メートル。その高さをしばらく保ったまま、黒い影は街中を飛び抜けた。
 やがて、とうとう黒い翼も重力に負けてきたのか、ある程度保っていた高さが徐々に落ち始めた。それを確認してか、 ペインはあっさりと翼を操作するのを止め、リィシナの体を抱えたまま、軽やかに着地した。
「……あ」
 呆然としかできなかった。自分が治安管理局、PASオフィスの応接室でメルと話していたのは、 つい三分ほど前のことである。その治安管理局は、背後のはるか一キロは離れた所にあった。 屋上付近の壁に人が一人か二人が通れるような穴がぱっくりと口を空けていて、そこからまだ黒煙が立ち昇っていた。
 ようやくペインの戒めから解放されたリィシナは、何とか二、三歩後退さった。
「あ、あなたは……」
 一人で治安管理局を襲撃するという、無茶以外何ものでもない行為をやってのけた、目の前にいる黒装束の男を、キッと見据える。
「あなた……、こんなことして、ただで済むと思ってるんですか?」
 恐怖を押し殺しての、精一杯の抵抗。
「PASだって、黙っていませんよ。あなたなんか、ロイやパースさんが見つけてすぐに捕まえちゃうんですから」
 目の前の人物が何者かはわからない。しかし自分にとって、世の中にとっていい関係を築ける人物ではないことだけは確かだった。 失われたリィシナの思考は、言葉を口に出すことによって、ようやく働き出し、同時に恐怖も感じるようになる。
 この男は自分をいったいどうするつもりなのだろうか。
 リィシナは精一杯強がったが、どんなに強く見せても、目の前に迫る黒い脅威と、死の予感は避けられない。今にも、 膝を折ってその場に崩れ落ちそうになるのをなんとか我慢して、リィシナは口元をきゅっと結んだ。
 不意に、ペインが笑んだ。口元がいびつに歪み、白い歯が唇の間から垣間見えた。まるで見る者全てを凍らせてしまうような、 そんな魔力がこもっていそうな笑み。
「ふふ、PASか。奴らもどこまでやれるか、見モノだな……」
 そうつぶやくように言ったペイン。その直後だった。街全体を揺るがすような地響きがリィシナを突き上げたのは。
「きゃっ!」
 大きな震動に思わずよろめくリィシナ。その間にペインは、恐るべき瞬発力でリィシナとの間合いを詰め、 そしてその手を取り再び拘束した。
「いや、離して!」
 手足を激しく振って抵抗するリィシナ。だが、ペインにそんなものが通用するはずもなく、 やがてペインの軽い締め上げで静かになったのを見計らったように、一台の車が二人の前で急停止した。
「くくく……、さぁ、始まるぞ。幻術士達の宴がな……」

「何してるんだ! さっさと奴を追え! 何としてでも奴を捕らえるんだ!」
 未だ静まぬ動乱の中、SEMSフロアでは、各々の怒号が響き交っていた。
 オフィス内を生き物のように徘徊していた煙と幻影は、パースを始めバードック、ディル、 メルの迅速な行動ですでにとり払われていた。倒れた棚や机、転がった椅子に散乱した書類。オフィスは散々たる有様だった。
「パース、今のがぺイン=セドかい」
 床に散乱した書類を拾い集めていたパースに、ディルが尋ねた。
 パースはそちらに目もやらず、床に視線を落としたまま答える。
「ええ、ディルとメルとバードックは知らなかったわね。あれが数年前にPASと戦ったペイン=セドよ」
 口調は普段通りだったが、あの男の名を語ったパースの表情は、わずかに憤りに歪めているように見えた。 それは眉をほんの少し吊り上げているだけだったのだが、常日頃から無表情を貫き通してきた彼女としては、珍しいことだ。
「完全にしてやられたわ。おかしいと思っていたの。ここに近づいていた足音が、六階に踏み入れた瞬間に消えたから。 それに気配も完全に」
 局の正面玄関には、侵入者を想定して、武装局員を配備されているはずである。にも関わらず、 ペイン=セドはそれらを全て突破し、堂々と正面から侵入してきたと言うではないか。六階にあるSEMSフロアに辿りつく間にも、 何人もの武装局員と出会ったはずである。彼らもそれなりの訓練を受けてきた兵ばかりだ。しかし彼は息も乱さずここまで来た。
「パース、落ち着いて」
 メルが声をかけてきた。普段、滅多に見せない彼女の怒りに心配になったのだろう。
 そんな彼らを僅かに視界に捉えて、パースは瞳を細めた。次第にパースの表情が柔らかなものになる。
「……ええ、ごめんなさい。少し頭に血が昇っていたみたい。少し時間を頂戴。ペイン=セドの追跡には、 テロ対策一係と二係から数名選出して当てて。後は現状維持で待機」
 一通り指示を出し、パースは先ほどペインが放った花火のような物について考えた。
 あれは言うまでもなく閃光弾。主に何かの合図に使う物。
 そしてペイン=セドの狙いは、最初から明らかにリィシナ一本だった。ということは、あの閃光弾は、リィシナ奪還の合図。
 その瞬間、パースの頭の中に最悪のシナリオが描かれ始めた。それが書き上げられない内に、 パースはぱっくりと口を空けた壁の穴から、眼下に広がる街なみを見やった。
「そんな、早過ぎる。それに……」
 僅かな不安は見る見るうちに膨れ上がり、彼女の胸の内を占めていく。刹那の間に。
 ――来る。
 すでに考える暇はなかった。窓の外へと向けた視線をフロア内に戻しパースはあらん限りの声で叫ぼうと口を開いた。
「――ふせ――ッ」
 その瞬間、
 ドォン! 
 大きな爆発音。一つではない。その後に一つ、また一つ。合計三つ。パースの背後の南側の壁穴から、 住宅地のど真ん中で巨大な爆炎が上がるのが見えた。闇に半ば隠れていた街と空が赤色に染まりあがり、 僅かな時間だけザフトス市を昼に変えた。続いて突き上げるような地響き。フロア全体がが大きく揺れ、 その場に立ち尽くしていた局員達を薙ぎ倒した。巨大な震動にガラス窓が激しく震える中、 なんとか踏みとどまったパースは、窓の外の光景を見て、紫の瞳を見開いた。
 真紅の炎が天に向かって昇っていき、黒煙がその後に続く。とんでもない爆発だ。 よほどの量の爆薬を使ったのか、周りにある住宅数十棟は巻き込んでいる。地上数十メートルまで巻き上げられた瓦礫は、 バラバラと街に降り注ぎ、小さな悲鳴を無数に生んだ。
「パース! こっちもだ!」
 パース同様、震動に持ち堪えたディルが反対側にある通路側の窓を見て叫んだ。 街の北東に位置する北住宅地区からも同様の爆発が起こっていた。そのすぐ後に廊下に出ていたメルが、 南工場地区でも同じ爆発があったと報告してきた。爆発は全部で三つ。
 我が目を疑う局員。むろん、PASメンバーも同じだった。ザフトス市のちょうど中央にある治安管理局から見て、 北東の北住宅地区、南西の南工場地区、南東の南住宅地区からそれぞれ一つずつの大きな爆発。
「何てこと……」
 メルが歯をきしりながらつぶやいた。その声に畏怖はない。あるのは心内に余韻として響かせる戸惑いと、 目前に広がった惨劇をやってのけた犯人への憤り。ディルとバードックもその横に並び、眼下に広がる惨状を苦々しい表情で眺める。
 が、ウヌラートとパースだけは、それよりもさらに険しい表情をしていた。
「……ふむ……」
不意にウヌラートが口を開いた。
「やはりか、パース」
「ええ……」パースが静かにうなずいた。きゅっと結んだ口元を重々しく開く。
「最悪の事態のようです……」
 このSEMSフロアにいるメンバーに見えなくて、パースにのみ見える物。それがパースの険しい表情のわけだった。
 パースの目には見えていた。それぞれの爆発地点から青紫の霧が猛烈な勢いで広がっていくのが。爆風も手伝ってか、 気がつけば霧はザフトス市全体を覆うほどにまで広がっていた。すさまじい量のCスチームだ。
 やがて青紫色が薄い黒色に変化する。恐らくどこかで幻術士がファントマビリティを行使しているのだろう。
 突然、靄がかかったような空間が、局所的に歪んだ。まるで渦を巻くような動きでそれは一つの大きな影を生み落とす。一つ目の、 毒々しい緑色の皮膚。頭のてっぺんから生えた一本の角。薄暗い霧の中に巨人が現れたのだ。生み落とされてすぐのそれは、 大きな咆哮を上げた。もっともそれが幻影であるため、モンスターの雄叫びは耳に届くことはなかったが、 それでも巨人を目の当たりにしている市民に、これ以上にない恐怖と混乱を与えるには充分だったのだろう。 一つの悲鳴をきっかけに、街は大混乱に陥った。
 中央大通りを大勢の市民が当てもなく逃げ惑う。それを楽しむかのように、巨人が街を練り歩く。 続いて空間の歪みがあちらこちらで発生しだした。そこから羽の生えた巨大トカゲや獰猛な獣といったモンスターが次々と出現し、 市民の混乱は頂点に上ろうとしていた。
 パースは意を決したように振り向いた。
「係長」
うむ、とウヌラートも大きくうなずき、そしてフロアにいる局員全員に告げた。
「即座に事件処理にとりかかるぞ。幻影犯罪の発生につき、この事件の対策本部長はこの私だ。直ちにチームを結成し、 混乱の沈静化、そして犯人逮捕にとりかかる」
「聞いての通りです。これからは三班に分かれて各々事件の処理に当たってもらいます」
 ウヌラートの後はパースが引き継いだ。
「まず第一班、テロ対策一係は刑事課と組んで犯人逮捕をお願いします。ただし、 相手は強力なファントマビリティを要する可能性がありますので、戦闘はできる限り避けてください。犯人を見つけ次第、 PASに連絡、可能なら検挙を許可します」
「了解!」
 指示を受け、テロ対策一係のメンバーがぞろぞろと立ち上がった。パースが続ける。
「第二班、天災対策係は警備課、生活安全課と組んで、市民の誘導をお願いします。避難場所は、 南住宅地区のフリーグルト公園と、リーフェスト学園とします。避難が完了次第、SEMSメンバーに限り、第一班に合流し、 事件の捜査に当たってください。続いて第三班、つまりテロ対策二係は現状維持。オフィスの整理をお願いします。 それと何が起きるかわからないので、すぐに出動できるようにしといてください」
「了解」
 現状維持を言い渡されテロ対策二係のメンバーは素直に従った。彼らの本音としては、 現場に駆けつけたかったが、幻影犯罪が起きた時は彼女のいうことに間違いはない。 テロ対策二係のメンバーは、直ちに破損した応接室の壁の修復や、散らばった書類の整理に取りかかった。
「パース、僕らは何をすればいいんだい?」
 ディルがパースの横に並んで尋ねてきた。
「もちろん、幻影犯の逮捕に向かってもらうわ。ただ、敵は見ての通り、広範囲に広がっている。 あなた達にはそれぞれ分担して幻術士の逮捕に向かってもらうわ。ディルは北東、バードックは南西、 メルは南東の爆発地点に向かって。あなた達に限り、彼らを見つけ次第、交戦を許可するわ。ただし、 今回の敵は今までような幻術士とは違うから気をつけて。油断は禁物よ」
 そう指示するパースに大きく頷き、三人はSEMSフロアから足早に出て行った。
テロ対策一係、天災対策係、そしてバードック、ディル、メルがいなくなったSEMSオフィスはいたって静かになった。 下の階ではまだ騒ぎが収まっていないようだが、六階にあるこのフロアだけは、落ち着きを取り戻していた。
「思ったより早く動いたな」
 PASオフィスの中で唯一無事だった自分の机に着いたウヌラートが改めて、パイプに火をつけ、パースに話しかけた。
「はい。申し訳ありません。彼にこんな決断力があったとは……」
「彼女を捕えたことによって、逆に決断の意志を強めてしまった……か。まさかこんな形で裏目に出るとはな……」
 ウヌラートがふっと微笑んだ。まるで彼女の失敗を慈しんでいるかのような笑み。それが心外だったのか、 パースはバツの悪い顔をして話を続けた。
「この事件の幻影犯ですが……」
「ああ、君の推測が当たったようだな。フューゲル=フェルゲートの子供達とみて間違いないだろう」
 パースの推理が正しいとすると、フューゲル=フェルゲートに引き取られたジェミニの子供たちは、幻影能力を飛躍的に高める薬に、 ある程度順応できるようになるための、いわば道具にすぎない。
 街をまるごと幻影で覆ってしまうという、前代未聞の大事件を実行するには、 それなりの能力がいるということだ。そのためには、薬で強化した子供が数人は必要不可欠なのだろう。 だからフューゲルは、ペインという切り札に近いカードを切り、強引にでもリィシナを奪還した。
 そこまではいい。問題はその先だ。
 街を幻影で覆ったとはいえ、所詮は目くらましにすぎない。それこそ酔狂で終わってしまうものだ。街を爆破してはいるが、 それはCスチームを効率よく散布する手段にすぎないだろう。
 だとすると、フューゲルはその「目くらまし」を利用して、何かを仕掛けてくるはずだ。
 パースにはそれがわからない。が、一つの可能性としてこの治安管理局への襲撃を考えた。
 世にはびこる幻影犯に限らず、犯罪人にとって、この治安管理局は目の上のたんこぶの様なものだ。買う怨みはいくらでもある。 だからパースは、SEMS局員のメンバー全てを外に出さず、一部を現状維持にし、自分もまた、この場に残った。
 パースはわずかばかりに瞳を細めてそのまま視線を窓の外にやった。
 相変わらず外は混沌としている。黒い霧の中を巨人などの空想上の生き物が行き交っている。その下では尚も混乱する街の人々。 PASを始めとした局員が出動したが、その効果が現れるのはまだ先のようだった。
「やれやれ。どうにしろ、まだまだ油断は許されないか。先は長いな」
 再度ため息をついた彼は、視界にパースを捉え、言った。
「それとも君には、すでに結末が見えているのかな?」
「まさか。私に見えるのは目の前に見えるモノだけです」
 そう答えたパースの瞳は、美しく透き通った紫色をしていた。何の感情も抱かないような、無表情。 その心内に何を隠しているのかは、係長であるウヌラートにもわからなかったが、 彼女が戯言を言っていないことだけは確かだった。

「な、何がどうなってんだよ」
 その中で一番最初に口を開いたのはブラスだった。
 夜と言える時間帯になろうとしている時刻、彼は刑事課オフィスにいた。
 ブラスは、今朝晴れて退院を果たし、本日現場復帰した。
 とはいえ、病み上がりであり、無茶はできないということで、今日の仕事はデスクワークが主だった。 一週間近くも席を空けていたため、幸いやるべき仕事はたんまりあり、いつしか日が暮れ、終業時刻も過ぎ、 彼が疲労を感じた頃になって、ようやくブラスは休憩をいれていた。
 自分がいなくなった病室は、もうロイ一人である。今ごろは暇をもてあまして、ブツクサ愚痴を吐いている頃だろう。 一人残してきた相棒のことを気にかけていた時、それは起こった。
 やや薄暗かった刑事課フロア内を一瞬白光が染め上げ、その後轟音と共に響いた地鳴り。 地響き。椅子に座って、ぼんやりと考えごとをしていたブラスは、その信じられない事態に、 先ほどのセリフを吐いたというところである。
「セイファード課長!」
 凛としたその声に、ふと振り返ると、大勢の男達を従えた、三人のPASメンバーがオフィスに入ってきた。 バードックにディルにメル。刑事課オフィスに現れた彼らは、足早にセイファードが掛けている執務デスクに歩み寄った。
「ウヌラート君の伝令かね?」
「はい。お借りしてよろしいでしょうか?」
「ああ、何人でも持っていきたまえ。こういう時の刑事課だ」
 笑顔で答えるセイファードに一礼したディルは、振り返り、刑事課局員に向かって指示を送った。危機迫るその様子に、 すっかり固まってしまっていた刑事課の面々もいよいよいつものそれへと変わっていく。 あっという間に騒々しくなるオフィス。すでに椅子から立ち上がって、指示を待っていたブラスは、 近くにいたメルに何が起きたのか聞いてみた。
 しかし返ってきたのは十二歳とは思えないほど切迫した口調での「わからない」の一言のみ。 やがて指示を終えたPASメンバーは、刑事課のメンバーを率いてオフィスから出て行ってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。お、俺は?」
 仕事の割り振りの中に自分の名が呼ばれないまま、出ていくPASメンバーを呼び止めようとするブラス。 そんな彼を今度は落ちついた口調でセイファードが呼び止めた。苛立たしげに振り返るブラス。
「何ですか?」
「ああ、君は悪いが居残りだ。退院したとはいえ、まだ完治はしていないだろう。 そんな体のまま危険な任務に向かわせるわけにはいかないよ」
「しかし、課長!」
 何かを必死に訴える眼差し。正義心に燃えた若いゆえの熱さ。それら全てを受けとめ、 ゆっくりと冷ますような微笑を浮かべたまま、セイファードは言った。
「ブラス君。何も現場に出るのが全てではないのだよ。今の君にしかできないこと。それを見つけなさい」
「俺にしかできないこと……」
 なぜ自分だけ残されたのか。その意味。今の自分にしかできないこと。
 彼の脳裏にふと一つの影が現れる。だらしなくて、無計画で無頓着。無法者。ことあるごとに自分の頭を悩ませてきた相棒。 しかし芯は曲がっていない。まるで定規で引いた線のようにまっすぐと自分の道を突き進む。かつてない幻影犯罪が勃発した今、 そんな彼がおとなしくベッドの上で寝転がっているとは到底思えない。
 ブラスは椅子に掛けてあった上着を手に取ると、上司に「失礼します」とだけ告げて、踵を返した。 痛む脇腹を押さえ、オフィスから姿を消したブラス。そんな彼を見送ったセイファードがため息混じりにつぶやいた。
「やれやれ。うちの若いもんも君の所のに似てきたよ。ウヌラート君」

 ロイはその光景を病院の窓から見ていた。
 とはいっても、この病室はそんなに高くないところに位置しているので、見えたのは遠くで上がった爆炎のみだ。 あとは地の底から響く轟きと、炎が染め上げる真っ赤な空。
 しかしそれだけで彼が動く理由には充分だった。
 ロイはすぐに上着を羽織ると、ベッドの横に立てかけてあったトゥルース・ソードの収まったホルスターを手に取り、 病室から出て玄関まで行くのも億劫だったので、窓からその身を投げ出した。
 三階の窓から飛び降り、落下途中に頭の包帯を取る。着地の際、多少の痛みはあったが、 全く問題ない程度まで回復はしている。元々ただの脳震盪だ。入院すら必要だったのかわからない。 丸一日寝転がっていたため、身体の鈍りは仕方なかったが、走っているうちにこなれてくるだろう。
 ロイは全力で治安管理局に向かって走った。
 何が起こったのかは全く理解していないが、この事態に、フューゲル=フェルゲートが関わっていることだけは、 なんとなく直感でわかった。
 そこにリィシナは関わっているのか、PASの動向はどうなのか、この街は今どうなっているのか、 聞きたい事が山ほどある。その疑問の全てを解決してくれるのが、治安管理局だ。
 空は僅かに明滅している。よく見ると、薄い膜がかかったように、空がぼやけている。
 幻影だ。空一面を幻影が覆い尽くしている。しかしこの辺りに張られている領域がひどく不安定だ。
 ふと、空を見上げていたロイは、右手に建つ建物の屋上に人影が立っているのを見つけた。幻影のせいで薄暗く、 シルエットとなったその姿の正体はわかりにくかったが、赤く染められた空のおかげで、僅かにその輪郭がぼんやりと見えた。
 どうやら女のようだ。こんな時にあんな所で何をやっているのだろうか。高い所にでも登って見学しようとでもいうのか。
 だが、その女性の髪の色に気づいた時、ロイは思わずその足を止めていた。それが、空を染める色と同じだったからだ。
「ルイジェル!」
 その少女の名を叫ぶと、ルイジェルはゆっくりとこちらに振り向いた。
 が、どこか違う。いつもロイに見せていた温和な笑顔はどこかへ消えている。その代わりに彼女の顔に表れていたのは、 瞳に映る者を虫けらのように見下した、侮蔑。
 まるで無表情にも似たその冷たい面に、ロイは最初、人違いだとも思った。
 しかし、ルイジェルは、忌々しそうに備え付けてあった螺旋階段から降りてくると、 ロイの正面に立ち、長い髪をさっとかき上げた。
「つくづく無能な集団なのね、PASは」
 敬語もない。口調も重いし声はいつもより低い感じがする。
 しかし、ロイは驚かなかった。パースから事前に情報を聞き、「そういうことも有り得る」と考えていたからだ。
 ロイは一瞬沈黙するが、すぐに口を開いた。
「どういうことだ。俺たちが無能だって?」
「そうよ。散々ヒントをあげているのに、行動は全て後手後手。暗殺者には殺されかけるわ、あげくの果てには、 せっかく保護したリィシナを取り返されちゃって……」
「なに?」
 ロイがピクリと眉を吊り上げる。リィシナが取り返されるとはどういうことだろうか。保護?  あれは逮捕ではなかったのか……。
 それよりも気になるのが、彼女の態度だ。事前の情報では、ルイジェルはフューゲルの一味だ。 それなのに、PASの不手際や、リィシナの奪還を、さも忌々しそうに話す。まるでそれが自分にとって不都合であるかのように。
 ――不都合?
 ロイは目を見開いた。そしてルイジェルの顔を数秒の間じっと見ながら、 今まで自分が感じていた違和感と、今回得られた情報を照らし合わせる。
「……そうか。おまえだったのか、リィシナを幻影に襲わせていたのは」
 この一週間で頻発していた幻影事件。リィシナはその全てに遭遇していた。パースがリィシナを連行した大きな理由はそこにある。
 しかし今から考えてみれば、文具店と学校での事件では、リィシナの他にもそこにいた人物が一人だけいる。
 それがルイジェルだ。
「理由はわからないが、おまえはリィシナをはめるために、幻影事件を起こし、わざとリィシナをPASに逮捕させたんだな」
「ええ、ご明察」
 ルイジェルは全く惚ける素振りも見せずに即答した。
「ついでに言えば、工場爆破事件の時も、学校爆破事件の時も、リィシナが記憶を失っていたのは、私があの子に薬を打ったからよ。 あの薬は幻影能力を高める性質ともう一つ、使用者に強力な暗示をかけることができてね、高い催眠作用も得られるの」
 それであの時のリィシナは、どこかおぼろげだったわけだ。
「なんのために? おまえはフューゲルの仲間じゃないのか」
「決まってるじゃない。今回のこの計画を邪魔するためによ。元々私はあの男の計画に数年前から気づいていてね、 私たち兄弟を薬漬けのジャンキーにして、ただの幻影兵器としてこき使うこともわかっていたわ。だから私は時期を待って、 計画を邪魔できる日を待った。そんな時、リィシナがうちに引き取られてきてね、この子だと思ったわ。囮にしてPASに逮捕させ、 フューゲルの計画も全てパーにしてやると決心したのよ。実際邪魔はうまくいっていたわ。PASには気づかれず、 それでいてフューゲルに疑惑の目を向けさせる。フューゲルがそのまま逮捕さえされてくれれば、 奴はそのままこの街から姿を消して、私は自由の身となる」
 要するに、主人であるフェーゲルの計画が気に食わなかったから、それを邪魔してやろうと、色々策を講じていたということだ。
 それならば治安管理局と利害は一致する。しかしわざわざこんな回りくどい方法を選んだのはなぜだ?
「あれでも父は裏の世界では相当な力の持ち主でね。私一人がジタバタしたところで、どうにもならないわ。かといって、 治安管理局に密告しようものなら、たちまち奴の部下達が動いて、私を狙ってくるでしょうね。自由を求めている私にとって、 それは望む事ではないわ」
 なるほど。とロイは一つ頷いた。
「が、俺はおまえをこのまま見逃すわけにはいかねぇな。確かに利害は一致してるし、おまえの言い分もわかる。 だが、やり方が気に食わねぇ。色んなとこ爆破したり、死人まで出したり、 自分が自由になるためには手段を選ばねぇのはムカツクな」
 ふふふ、とルイジェルが吹き出した。
「違うでしょ? 貴方が私に怒っているのはそんなことじゃないでしょう?」
 紫水晶のような瞳と細めて、ルイジェルは人の心を見透かしたかのようにロイを眺めた。
「そうだな。何より許せねぇのはリィシナを利用したことだ」
「よくできました。ふふ」
「おまえがリィシナに優しかったのは、利用しやすくするためか。名演技だったな。俺もリィシナもすっかり騙されてたよ」
 それはどうも、とルイジェルがお辞儀をする。貴族令嬢のような優雅な礼だが、 その顔に映るものは、冷酷な犯罪者そのものだった。そのアンバランスさがまた、彼女の美しさを引き立ててもいる。
 ――と、遠くで車のエンジン音が聞こえてきた。街のどこかで走らせているものだろうが、 その音がドンドン近づいていることから、車はこちらに向かってきていることが推測できた。
 ルイジェルが東の方向、つまりは治安管理局の方向に目をやると、目元を歪め、ちっ、と悪態をついた。
「もう来たのね。予定よりも早いわ。PASは何をやってるんだか……」
 ルイジェルが何を言っているのか全くわからないロイは、さらに彼女から情報を引き出そうとするが、ロイよりも早く、 ルイジェルがその続きを口にした。
「とにかく貴方の言い分がどうであれ、今この時点では、利害が一致していることだけは確かよ。邪魔だけはしないで」
 そう言うや否や、ルイジェルが地面にCケースをたたき付けた。
 粉々に砕かれた容器から、無色の気体が散布され、ルイジェルが見えない空気に向かってひと睨みすると、 そこにたちまち巨大な壁が創られた。
 もちろんルイジェルの創りだした幻影であるが、その壁は見ただけでは幻かどうかも見分けがつかない。 壁は道をすっかり塞ぐ形に聳え立ち、その姿を悠然と誇示する。
「おい待て! 一つだけ答えろ。フューゲルの目的は何だ。奴はこんなことまでして、一体何をしようとしている」
 尚も食い下がるロイに、ルイジェルが面倒臭そうに一瞥し、
「うるさいわね、これが終わったらたっぷり説明してあげるから、今は黙ってそこで――」
 と、ルイジェルが言い終わらないうちに、至近距離まで近づいていた車が、急ブレーキをかけ減速した。 しかし、相当のスピードが出ていたのだろう。あるはずのない所にある壁に反応が遅れたか、 車はスピンをしながら壁の幻影に突っ込んだ。
 ただのホログラムである幻影を突き抜け、砂煙を盛大にぶちまけながら、やがてその動きを止めた。
 ぷしゅうう、と動力部分から蒸気を巻き上げ、沈む機体に激しい負荷がかかったことを裏付ける。やがて車体が一回大きく揺れ、 後部席の扉がゆっくりと開いた。
 そしてそこから現れた人物を見て、ロイは驚き、ルイジェルはその美しい顔立ちを大きく歪めた。

 リィシナは怯えていた。
 ゴトゴトと引っ切りなしに揺れる車の中で。
 あれから、リィシナを押し込めた車は、何分か混乱に揺れるザフトス市をひた走っていた。窓の外を眺めると、 周りの街並みは静かに、薄暗くなっていくのがよくわかった。
 ああ、そうか。ここは工場地区だ。車は治安管理局近辺から発車して、北の工場地区を走っているのだ。 北工場地区は、ザフトス市全体から見て、北西に位置している。
 その名の通り、工場が密集していたりもするが、危険な仕事も多いため、病院も多数点在している地域だ。 昼間は労働者で賑わうが、夜になると、全く人がいなくなる。
 さらにこの辺りは爆発がなかったらしく、辺り一帯、静かでここだけ夜を保っているようだった。
 この車はどこに向かっているんだろう。
 もう数分も続く重苦しい沈黙の中、リィシナは車の震動に身をゆだね、これから自分を待つ運命について考えていた。
 このままでは、よくないことが起こることはもう断言できる。しかし、その正体が掴めない今、 リィシナは得体の知れない恐怖に、ただ震えるしかなかった。
 心の中で何度もロイの名を呼び続け、来るはずもないのに彼の姿を脳裏に焼き付ける。
 彼女の横に座る暗殺者は、リィシナを監視するでもなく、ただ前だけを見据えて、ジッと動かない。何を考えているのか、 何がしたいのか、数々の疑問を浮かべるも、彼の持つ無機質なものに、それらの疑問が無意味に思えてきてしまう。
 横にいるだけで、大きな圧迫感を感じ、リィシナはさらに居心地の悪さを強めた。
 と、その時だった。
 何度目かの角を曲がったその直後、車は突然そこに現れた巨大な壁にぶつかった――かのように思われた。 しかし車は大きな衝撃に砕かれることなく、偽りの壁をすり抜ける。
 一瞬のことに、完全に反応が遅れた車の運転手は、ハンドルを大きく切り、その後でブレーキを掛けた。
 タイヤが地面と強烈な摩擦を起こし、外から見たら、スピンをしているのがよくわかるだろうが、車内にいる者にとっては、 何がどうなっているのか全く掴めない。リィシナは前後左右に襲い来る慣性に翻弄されながら、窓枠に強く頭を打ち付けた。 本来なら泣きそうになるほどの痛みだったが、今は混乱がそれを上回った。
 やがて静かになった車内。やっと止まったのだろう。あれほど揺さぶられていたにも関わらず、 ペインは動揺することもなく、舌打ちを一つした。
「車は動くか?」
「ダメみたいです。動力がいかれちまってるようで……」
 運転手の男が何度もキーを回してみるが、車はうんともすんとも言わない。
 ますます忌々しげに、眉間に皺を寄せ、ペインは運転手とリィシナに「ここで待ってろ」とだけ言って、外に出て行った。
「ペイン=セド!」
 その叫び声が聞こえてきたのは、その直後だった。そしてその声が自分に聞き覚えがあることに気づいたのもすぐだった。
 反射的に頭を上げ、ペインが出て行った外を窓から眺めると、
 そこにいたのだ。
 今、リィシナが求めているもの。暖かな自分の居場所。
 そして、大切な、自分にとって必要な人が――。
 感極まって思わず叫ぼうと口を開く。が、なぜだかそれができなかった。
 感情の昂ぶりと比例するかのように、己の中に湧き出てきた倦怠感。足の底から泥に飲み込まれていくように、 身体全体がたちまち重くなっていく。そして瞬時に広がっていく眠気。
 せっかくロイに会えたのだ。それなのに何なんだ、この気だるさは。まるで自分の制御下から脱したように、 身体が全く言う事をきかない。じわじわと蝕んでくる意識の喪失に、抗うこともできずに、リィシナはロイの名を呼ぶ事もできず、 その場で崩れた。

「やはり貴方だったのね。まあ、あんな無謀な作戦、貴方ぐらいしか実行できないでしょうけど」
 忌々しそうに、ルイジェルが目の前にたたずむ黒い暗殺者に向かって言った。
 美しい紫色の瞳に睨めつけられた暗殺者、ペインは全く気にしていないように「くく」と肩をわずかに揺らした。
「なるほど、おかしいとは思っていた。本来四ヶ所で起こるべき爆発が、三つしか起こらなかった。この地域担当は……、 裏切り者がお前だったとはな……。そこのPASを助けたのも、おまえの『戦力』になるからか?」
 先日、ロイはペインの襲撃を受け、危うく命を落としかけた。その時彼を救ったのがルイジェルである。 それはルイジェルがロイを生かしていた方が都合がいいと考えたからだ。ペインが今、 ルイジェルが裏切り者であることに気づいたところを見ると、その場ではうまく繕って言い逃れたのだろう。
「ええ、あまり役には立っていないみたいだけどね」
 冷え切った声でルイジェルがそう応える。
 不意に、ペインがにやりと笑った。
 瞬間的に広がる危機感。それは幼いながらも、数々の修羅場を潜り抜けてきたロイだからこそ受信できた、場のシフトチェンジだ。 ピリピリとした鋭いものから、冷水にぶち撒かれたかのように、一気に空気が凍りつく。
 ゾワゾワと湧き出てくる鳥肌に、それでも何も気づいていないルイジェルに、ロイが叫んだ。
「ルイジェル、離れろ――っ」
 受けた感覚が言葉に変換された時には全てが遅かった。
 前方にいたはずのペインの身体が、陽炎のように歪み、消えた。
 そうだったのだ。ここザフトス市は、今や全てが幻影空間。いわば幻影使いの領域なのだ。
 そして歴史にその名を轟かす伝説的な殺し屋にとっては、獲物に気づかれないうちに、本体と幻影をすり変えることなど、 造作もない事だったのだ。
 瞬きも終わらないうちに、暗殺者の本体がルイジェルの目の前に現れ、
「――え?」
次の瞬間には、ペインの手甲から伸びた、三十センチほどもある三本の鋭利な爪が、ルイジェルの胸に深々と突き刺さっていた。
「ルイジェルッ!」
ルイジェルの体が一つ、大きく揺れた。
 ズシュ……という音が、よく小説や演劇では聞こえてくるのだろうが、リアルでは何の音もなく、 引き抜かれた爪が、ぬめった赤い糸を引きながらペインのマントの内に戻されていく。それが合図とばかりに、 真っ赤な血が泉のように胸からこぼれだした。
 身体に空いた三つの穴から、気力も体力も、生命力そのものも急速に抜け出ていくように、ルイジェルの身体が力なく崩れ落ちた。
 赤い髪が振り乱れ、胸から溢れ出た血の海と同化しているように見える。身に纏っている黒いローブは、 たっぷりと血を含んでさらにその黒味を増している。ルイジェルの目はかすんで、 どこか虚空を眺めている程度にしか見えなかった。
 だめだ。
 咄嗟に駆けつけたロイは瞬間的にそう感じた。今まで、人の死に際に幾度となく立ち会ってきたからわかる。 こいつはもう助からない。
ロイはもはや虫の息のルイジェルを抱き起こしてやった。すでに意識はどこかにいっているらしく、 抱き起こされたことすら気づいていないようだ。ただ虚空を眺めたまま、その息を弱まらせていく。
 可哀想に。自分が死んだと理解できないまま死んでいくのだろう。生まれてすぐ親に捨てられ、 孤児となり、やっと引き取られたかと思ったら、それは犯罪を犯すために利用される道具としての価値でしかなかった。 自身の生きる道を探すために、自由を得るため、主人に噛み付いたルイジェル。やり方は間違っていたが、 彼女も被害者だったのだ。もうちょっと早く出会っていれば、彼女もまた笑顔で暮らせる日々が来ていたかもしれない。 さんざんもがいたあげく、生きていた証すら残せなかったことに本能的にだろうか、ルイジェルはいつしか涙を流していた。 その意志表示を最後に、ルイジェルは息をひきとった。静かな、そしてあっけない終わり方だった。
「なぜ殺したっ! こいつも殺せと命令されたのか!」
「私もバカではないんでね、『計画に邪魔な存在を消す』という指令に、柔軟に対応しただけだ。 そいつは裏切り者だ。今後放っておくと、いずれ計画に支障をきたすことになる」
「……」
 亡骸となったルイジェルをそっと地面に寝かせてやり、ロイは考える。
 計画とは何だ。いや、それは今は関係ない。なぜルイジェルは、あの車を襲ったのか。
 計画の邪魔と言えばそれで終わりだが、元々ペイン自体には、あまり計画には関係がない。いわば、 計画を円滑に進めるために作った保険といったところだ。ルイジェルの狙いはペインではなく、 彼が治安管理局から奪還してきた……、
「リィシナがいるのかっ」
 気がつけば立ち上がり、一歩前に出ていた。
 不意にガチャリと、車のドアが開き、そこから、ぐったりとなったリィシナを抱えた男が出てくる。 恐らくフューゲルの部下だろう。男はペインに顔を向けた。
「リィシナ!」
なぜあの車にリィシナが乗っているのか。ルイジェルとペインの口ぶりから、計画に必要なリィシナを、 ペインが治安管理局から連れ去ってきたところを、ルイジェルが阻止したということか。なるほど、 計画の中枢を担っていたルイジェルだからこそ知り得る情報だ。でないと、こんな車が通る場所まで、 ドンピシャで当てられるわけがない。
 叫ぶロイに「無駄だ」と言い、鋭利な笑顔を作ったまま、ペインは男に「先に娘を連れて行け」とだけ指示を送った。 男は一つ頷き、立ち去ろうとする。
「待て……っ!」
 後を追いかけようと足を踏み出すが、そこには大きな壁があった。
 黒き凶風という壁。彼がそこにいる限り、前には進むことはできない。単純な選択肢を、ペインはロイにつきつけた。
 倒してリィシナを追うか、倒されて死ぬか。実にシンプルな選択肢だ。わかりやすいだろ、とペインが言った。
 そんな彼を苛立たしげに睨む。
リィシナがこの先にいる。それだけでロイの心臓は早く鼓動を刻んだ。
 信じてやれなかった。守ってやれなかった。あれだけ偉そうな事を言っておいて、何もしてやれなかった。 それは自分が彼女をちゃんと見てやれなかったから。最後まで、「リィシナ」を見ていなかったから。
 ほら見たことか。リィシナは何も悪くない。彼女は利用されていただけなのだ。
 フューゲルの企んだ計画にも、それを邪魔しようと裏で暗躍していたルイジェルの企みにも。
 それに抗うこともできず、もがくこともできず、ただ一人で傷ついて、苦しんでいただろう。
涙も見せる事ができない。感情も見せる事ができない。そんな苦痛に満ちた生活の中で、 ただ唯一ロイだけが、彼女が休める居場所だったのだ。
 それを感じてやる事ができなかった。
 全てを理解することができなかったのだ。
 謝って終わる問題ではない。結果、リィシナは大変な事件に巻き込まれ、目的はわからないが、危険な目に遭おうとしている。
 今度彼女を前にした時、彼女は自分を許してくれるかはわからない。
 だが、することは一つ。やれることは最初から一つしかない。
「……どけよ……」
 スラリと背のホルスターから、トゥルース・ソードを抜き取る。
「あいつに謝るんだ。あいつが笑うまで頭を床にこすり付けて謝るって決めたんだ。 どけよ、ここで立ち止まってなんかいられねぇんだよ」
 
一方その頃、襲撃を受けたSEMSオフィスでは、パースが抱いたある一つの疑問を膨らませつつあるところだった。
 街中に仕掛けてあったCケースによって街全体が幻影が覆われてから数分。
 確かに街全体が幻影で覆われてしまうという前代未聞の事件は起こった。だが、それだけなのである。 市民のパニックこそ起こったが、それ以外は何も起こらない。最初は、この騒動に乗じて治安管理局に、 フューゲル一味の大集団が襲撃をかけてくると思っていた。それが奴らの最終目標とも思っていた。だが、 思慮深いパースの思惑は珍しくもはずれ、局内は静寂に包まれているだけだった。
 外に目をやるパース。色や幻影自体がぼやけているところを見るとCスチーム密度はそんなに高くはないらしい。 しかも今日は風が強いためか、その幻影も徐々に晴れつつある。
 なぜフューゲルはよりにもよってこんな風の強い日を選んだのだろうか。幻影を使う者ならば、 幻影は風に弱いことも承知しているはずだ。自分だったらこんなへまはしない。もっと風のない、湿気があって静かな夜を選ぶ。
 フューゲルも馬鹿ではない。何かあったんだ。今日でなくてはならない何かが……。
 天気? 違う。現に奴らはこの最悪な天候の中で計画を実行した。
人材による何らかの支障? これも違う。だったら延期をすればいい。
 だったら……。
 この街の何かか……。そう、例えば交通関係とか……。
 ……。
 交通関係?
 その時、パースは大きく目を見開いた。
 ハッとなったように振り返り、立ち上がる。そして窓の向こうから覗く風景を見やった。
 今だ晴れない薄紫の異空間。街の各場所から巻き上がった黒煙と相俟ってか、視界は悪い。しかし、 元々風が強かったためか、その風景も徐々に改善しつつある。うっすらと、透明度の高いすりガラスを通して見ているような、 そんな世界の中。パースはその先の一点を見据えていた。
 確信と真実を貫く、強く鋭い視線の先には、ここザフトス市が世界に誇る蒸気機関車の中央停車駅。 ザフトスセントラルステーション。
 見えた。奴の計画の全貌が――。
「係長」
「ふむ」
 ウヌラート自身、今彼女が至った結論の意味は全くわかっていなかった。ただパースが動いた。 それだけである。しかし、何のコンタクトなしで全てを受け入れることができるのは、 上司と優秀な部下という絶対的な信頼関係のたまものか。
 パースは椅子にかけてあった上着を手に取ると、彼の座る執務デスクへと歩み寄った。その工程で彼女が、 フロアの入り口辺りにある一つの気配に目をやっていたことは誰も気付かなかった。その気配の主すらも。
「ストール」
 その一言で全てを悟ったのか、ウヌラートはくわえていたパイプを手に取り、彼お約束のため息を吐いてみせた。
「そこだったのか。いやはや、彼も大胆なことを試みるものだな」
「私も今気づきました。まさか、この幻影を囮に使ってくるとは」
「時間はありそうかね?」
 ウヌラートの問いにパースは首を振って答えた。
「そうか。駅に一番近い者といったら……」
「ロイ。今のところは彼に任せるしかありませんね」
「なぜそこにロイがいるとわかる?」
「爆発が起こったのは、街の中心にあるこの治安管理局を軸として、北東、南東、南西の三つ。傾向としてはあと一つ、 北西の北工場地区で爆発が起こっていないのは不自然。それに、フューゲルの子供は、リィシナさんを除いた四人。 一人が一つの爆発地点を担当していたと考えると、一つ少ないのはおかしいです。そしてそこには、 ロイが入院している病院がある……」
「北工場地区か。そこにいるロイに全てを任せていいと?」
「もちろん、指をくわえて見ているつもりはありません」
 パースはそう言って、再びフロアの入り口辺りに視線をやった。が、すでにそこに気配はなく、 最初から何も存在していなかったかのように、局員が行き来しているだけだった。が、 彼女にはそこに何がいたかわかっていたのか、僅かに目を細め、視線を元に戻し、静かに言った。
「布石はもう打ってあります」

吹き荒れる風。上空に巣くった幻影は、熱せられた空気によって激しく渦を巻いているように見えた。 三つの爆発地点からここまで届いたCスチームも相俟って、視界は悪い。
 しかし、そこに対峙する二人の存在感は、そんな中でもより映えていた。
 一方は一度敗れたPASの男。もう一方はその男を死の直前まで追い詰めておきながら、それが叶わなかった暗殺者。
 黒いマントを激しくはためかせ、ペインはふと笑った。
「ロイだったか、またこうして対することになろうとはな」
 まるで旧友に会ったかのように笑むペイン。しかしロイの表情が崩れることはない。彼には時間がないからだ。
 リィシナはもうここにはいない。彼女がいったいどこに連れて行かれようとしているのかは、ロイにはわからない。 ただ一つ言えることは、目の前にいる黒装束の男を倒さなければ、彼女を救うことができないということ。
「そこをどけ、ペイン」
 叫んでもいなければ押し殺してもいない声。静かに、しかし激しく凄むロイ。ペインはそんな彼の姿をも楽しんでいるかのように、 ふふんとせせら笑った。
「彼女を救いたいか。だが、その前に少しぐらい楽しませてくれてもいいだろう」
 小さな、細い音。それと共に、ペインの手甲から三本の鋭い針が飛び出す。
「ひゅっ!」
 何のまえぶれもなく黒い影が動いた。それも尋常ではない速さで。
 裾の長いマントが、残像と化し、その余韻として一陣の風を残す。それを頬に受けた時、 ロイはすさまじいスピードで後ろに飛び退いた。
 直後胸ぎりぎりを通り過ぎる三本の光のライン。それを追うかのようにもう一つの鉤爪がロイを追撃した。
「はっ!」
 黒い斬撃。そして甲高い金属音。ロイとペインの得物が、火花を散らして衝突した。やや反らしていた体を元に戻し、 一気に息を吐き出す。黒い風に横一閃。だがそれは空を切った。ペインが一瞬の内に後方へ飛んでいたのだ。
 ――逃がすかっ。
 すかさず地を強く蹴り、ペインへの追撃を開始する。強靭な脚力で飛び出したロイはペインとの距離を縮めた。 すかさずトゥルース・ソードを下段から繰り出す。
「ちっ」
 至近距離にいるロイにも聞こえないような、小さな舌打ち。それもし終わらない間に、 ペインは片方の鉤爪でその一撃を受けとめた。耳を貫く鋭い音。すばやく爪をソードに滑らせ、 刹那の速さで反転した黒い影はそのままロイの腹に蹴りを加えた。
 衝撃。しかしそれにたじろぐことなく、むしろロイは前に出た。
「でりゃぁっ!」
 再び黒い剣の一撃。逆袈裟に繰り出されたそれは、しかしペインのマントの端を斬るまでにしか至らなかった。 ほとんどゼロ距離だったはずの二人の間隔は、瞬きの間に五、六メートルに広がっている。 それだけペインのスピードが速かったのか、それともその他の要因か。
「流石だな、接近戦ではややこちらが劣るか」
 大して困った口調ではない。むしろそれを楽しんでいる気がある。思ったより手応えのある者だったのか、 それとも思った通りだったのか。強い者を求める男の、至高の喜びがそこから見て取れる。
 しかしロイに、彼に対する優越感はない。優勢に進めていたはずの戦いに、ロイは勝利を感じるどころか、 苛立ちを募らせていた。
「うるせぇよ」ピッとソードを一振りし、ロイは続けた。
「本気じゃねぇんだろ。さっさと出せよ。お得意の幻影をな」
 ペインの笑みが歪になる。手には黄色い容器――Cケース。静かに、滑らかな動作でそれを地面に落とすと、 ガラスが割れるような音と共に「何か」がそこから吹き出した。
 突然ロイの体を黒い煙の帯が巻きついた。
 間髪入れずに今度は、ロイの周辺が真っ暗になった。何も見えない漆黒の空間。幻影だ。
 突然のブラックアウトに僅かな隙が生じたロイ。その側面からペインが特攻を仕掛けた。 ロイの視界の端できらりと光る鉤爪。三本の鋭いそれはアッパーカットの起動を描き、ロイの真下から襲いかかった。
「っ!」
 普通では考えられない反応速度と反射神経。ロイはそれによって体を大きく反らした。 鉤爪は空気を抉るようにロイを僅か数センチの間をあけて空を切った。
 とっさにソードの柄を返し、ペインに向かって袈裟懸けに斬り込む。
 ガキィン!
 耳をつんざく金属音。ロイのトゥルース・ソードとペインの左腕の鉤爪が交差したのだ。 激しく衝突した二つの金属は火花を散らし、真っ暗な空間を橙色に照らしだした。
 一瞬、ロイがソードを引く。攻撃の慣性に逆らえないペインの体は、そのまま前方によろめいた。 若干のよろめき。が、ロイにとってはこの若干で充分だった。すばやく柄を返し、ペインの脇腹を斬り裂いた。
 ――が、
 真っ二つに切り裂かれたペインの体は、赤い血を吹き出すこともなく、苦悶の表情を浮かべることもなく、 小さな粒となって散らばった。
 幻影か! と思った時にはもう遅かった。背後に強烈な殺気を感じ、その場から退けと脳が命令を下した瞬間、 ヒュッという軽く鋭い音がした。直後、全身を走る激痛。
 背をやられた。鋭い痛みだった。熱い何かが背の感覚を支配し、キリキリとした嫌な物が全身に伝わった。 必死に第二撃目をかわし、黒い影から距離を置く。
「っやろう!」
 悪態をつき、ロイがトゥルース・ソードを一閃した。
 途端に空間自体が切り裂かれたように黒い幻影は晴れ渡り、元の街の風景がロイの前に戻ってきた。 だが、黒い空間は意志を伴っているかのように、再びその空間を形成し、ロイを包み込んでいく。
 捕えた獲物は逃がさない。まるで執念深い狩猟者のような幻影に、ロイは生理的な不快感を感じた。 今も背に走る鋭い痛みは、それが決して錯覚ではないことを証明する。
 殺意が動いた。真っ暗な空間で、気配だけが目まぐるしく駆け巡る。
「しっ!」
 空気を切る音ともとれる掛け声。僅かに流れたCスチーム。黒色となったそれは、その向こうに隠れる影と共に、 激しく流動した。
 目の前の空間が突然渦を巻き、それはペインの姿を形成する。何のまえぶれもなく現れた黒い影に、 ロイはほぼ反射的にソードで斬りつけていた。
 先ほどと同じく、暗闇の中に霧散していく。
 またも幻影。本物は――、
「ここだよ」
 瞬間的に生じる背後の気配。絶対的な死の予感に鳥肌が皮膚を駆け巡った。 至近距離まで間合いを詰めてきていたペインは、ニィと笑むとロイの腹に強烈な一撃を叩き込んだ。
「ぐふっ!」
 腹から背に突き抜ける耐えがたい衝撃。コンクリートの壁をも打ち砕いてしまいそうな強力なボディブロー。 血の臭いが腹の底から、鼻腔を突き抜けた。ロイは一瞬顔を歪ませ、腹を押さえる。
「んの野郎ぉっ!」
 しかし怯まずに蹴りを放つ。ロイの蹴りはペインの同じく腹に直撃し――。
 ペインの体は先ほどと同じく、またもや粒と砕けた。
「ちっ!」
 悪態をつき、ロイがすばやく振り返った。
「遅い」
 白い拳が目前に迫ったのはわかった。が、避けることはできなかった。 左頬に強い衝撃。顔が歪み、吹き飛んだ。
 くらくらと視界が歪み、周りの空間がさらに歪んでいく。ハッとなると、 黒い影はすさまじいスピードで自分との間合いをさらに詰めてきていた。
 強靭な精神力をもって、痛みと視界の歪みを取り去る。血ににじんだ歯をぐっと食いしばり、ロイは前に出た。 不規則な軌道で繰り出される双方の爪は、ロイのトゥルース・ソードに触れるとバラバラに分解する。 それと同時に、背後にペインが現れた。
「はっ!」
 ソードを返し、背後の空間を斬り裂く。強烈な剣圧を伴った一撃は、ペインを真っ二つにし、再び霧散させた。
 遊ばれている。
 視界に入るペインはことごとく偽者だ。幻影で人を傷つけることはできない。 できるのはあくまで惑わし。それを知っていてペインはあえてロイに幻影を放ち続ける。 本体はこの暗闇の中で、黒い幻に翻弄される自分の姿を傍観でもしているのだろう。
 ――傍観?
 数体ものペインの虚像を薙ぎ払いながらも、ロイはこの幻影にある種の違和感を覚えた。
今までの経緯からすると、奴はすでに自分を数回は殺害できたはずだ。それなのに、ペインは自分の虚像を放ってからというもの、 めっきりその襲撃回数を減らした。
 ふと、ロイはにんまりと笑んだ。圧倒的な劣勢の中、端から見れば、狂気に取りつかれたかのようにも見えるだろう。 しかしロイのそれにははっきりとした意志が込められていた。それは確信へと繋がり、彼を奮い立たせる大きな要因ともなった。
 ロイの周りの空間が歪み、そこから次々とペインが生まれる。そして有無も言わさず襲撃。繰り出される数々の爪に、 確実に対処しながら、ロイはある一点を見据えた。たった今見つけた一点の空間。そこには何もない。そう。 暗闇以外何もないはずだった。
 しかし彼には見えていた。その向こうにいる暗殺者の姿が。
 不意に、ロイの視線の先に幾体ものペインが重なった。それはペイン本体が行った、 幻影のフォーメーションの過程だったのかもしれない。そこに隠された致命的な欠点にも気付くことなく行った無意識の行為。 その瞬間をロイは見逃さなかった。
「はぁっ!」
 ロイが咆えた。舗装されていない足場を強く蹴る。超人的な踏み込み。瞬きする間もなく、ロイはペインの幻影を突き抜けた。
「!」
 ギィィンッ! ソードと鉤爪が接触する音。それは幻ではなく、確実にロイの耳へと届いた。途端に、周りの幻が晴れ、 そこに黒き凶風が姿を現した。
「馬鹿な――」
 ペインの声が途切れる。トゥルースの黒い光が閃き、ロイの追撃が始まった。瞬間的にその攻撃に対応するペイン。 だが、幻影を破られたことで精神的なショックを隠せない彼は、完全に後手に回ってしまった。
 ――ぶち抜く!
 ペインの鉤爪が弾かれ、すかさず斬撃が影を襲う。気力の圧倒。すさまじい剣の圧力。ロイがさらに前に出た。
 このままカタをつける。寸分の余裕も与えない。与えれば風は再び暗闇の中へと消えるだろう。せっかく見出した絶好の好機だ。 今を逃す手はない。
 限界ギリギリまで距離を詰めたロイが、さらにペインを圧倒しだした。一つの剣撃はペインの体力を必要以上に奪い、 そしてさらに圧し込む機会を与える。すでにペインからは余裕というものがなくなっていた。暗闇の幻影は消え去り、 いつの間にか、二人は工場地区内に戻ってきている。幻影をイメージする暇がないのだ。
「ずりゃぁ!」
 一際気合いの入った掛け声。それと共に放った一撃が、右手の鉤爪をへし折った。度重なる重い圧力に耐えかねて、 鉤爪が手甲とのジョイント部分から大きく折れ曲がる。
 とった――。
 勝利への確信が瞳に映る。ソードの柄を返したロイは、そのままペインの首筋目掛けて一撃を繰り出した。
 刹那。ペインの殺意が膨らんだ。目の前に迫りくるソードを紫の瞳で捉え、次にロイの姿を捉えると、黒い影は突然叫んだ。
「かああああっ!」
 空気が震えた。直後に感じる大きな衝撃。それは胸を叩き、最後の一撃とばかりにソードを振り上げたロイを弾き飛ばした。
 ハンマーで殴られたような衝撃にロイは、気がつけば地面の上を転がっていた。砂や埃を巻き上げ、何回転もした後、 彼の体はコンクリートの壁に衝突し、ようやく静止した。
「ぐ……はっ」
 途端にくる激しい嘔吐感。まるで肺と胃の中身を全て吐き出してしまうような、強烈な苦痛。 常人ならば即死決定の一撃だっただろう。窮地に落とされた黒い影の攻撃――幻覚。
 先天的に強力なファントマビリティを持つ者だけがたどり着く能力、幻影を越えたもの、それが幻覚だ。 あるはずのない偽りの感覚を相手に与えるこの攻撃は、視覚のみを惑わす幻影と違い、相手に実害を与える恐るべき能力である。 ロイはあるはずのない衝撃に、身体が勝手に反応をし、吹き飛ばされたのだ。実際のダメージはあるはずがないが、 ペインの放った幻覚により、身体が反応した。
圧倒的な連撃で、完全に余裕を消滅させていたはずだったが、最後の瞬間、彼の気力がロイを上回った。 最終手段としてとっておいた幻覚をも引き出されたペイン。幻覚は幻影と違い、使い手にも多大な負担を与える。 それはペインとて例外ではない。ザフトス市でも五本の指に入る幻影使いである彼であっても、 幻覚は容易に使っていい能力ではないのだ。
「く、くく……」
ほぼ無酸素運動状態でロイの猛ラッシュを凌いだ彼は、肩を激しく上下させつつも、しかし笑った。 それは苦笑いといった方がいいだろうか。その引きつった笑みは、驚くほどほど余裕がないものだった。
「流石だ。流石だぞ、ロイ。まさか、幻影使いの深層心理をついてくるとはな」
 自分の虚像を作り、それを格闘術として組み合わせる幻影使いには、ある共通の行動をとることが多い。 幻影使いは自分が傷つけられることを恐れて、無意識の内に、幻影で自分のいる空間を隠す行為に出るのだ。彼の場合、 数体もいた虚像が必要以上に本体のいた空間をかばう行動に出たため、そこをロイに気付かれたのである。
 先ほどの猛撃を可能としたのは、瞬時でそれを見抜く、ロイの洗練された状況判断力のおかげでもあるだろう。
「いいぞ。そうでなくてはおもしろくない。何といってもPASだからな、この街最強の集団の一人だ。そう簡単に死なれては、 こちらも――」
「く……、ははははは……」
 不意に、続くペインのセリフを場違いな笑いが遮った。見ると、壁にもたれかかったまま動かないロイが、肩を静かに揺らしていた。
「何がおかしい?」
 自分の敗北が一瞬とはいえ見えたことによる、心の動揺を見透かされた。 その心の変化がペインからすでに笑みというものを完全に消し去っていた。そんな彼をおかしそうに、 ロイは血反吐を吐き出して答えた。
「ずいぶんおしゃべりになったじゃねぇか。全然らしくねぇぜ、黒き凶風さんよ」
 逆鱗に触れる。この言葉は今のためにあるのだろうか。ペインは自分の体内の血が逆流するのを感じた。 直後にくる激しい感情の歪み。それは怒りとなってペインの体をほぼ無意識の内に動かしていた。
「調子に乗るなよ、小僧ぉ!」
 激情のまま叫び、ペインは左手を掲げた。  直ちに周りの幻影空間が奇妙に歪んでいく。それは黒い影となり、そしてペインとなった。 その数ざっと三十。ロイの周りを取り囲む様にしてペインの大集団が現れたのだ。
「いかに幻影戦闘術の弱点を知っていようと、この数ではどうしようもあるまい!」
 口元を歪ませたペイン。それは狂気にまみれた笑み。自分の強さを誇示するため、 そして強い者を最上の喜びと共にいたぶり殺していくため。全てにおいて歪んだ感情。
「終わりだ。ロイ!」
 強い者と戦うことを生きる目標とし、幻を修練し、幻に喰われた。
 三十体にものぼるペインの幻影が襲いかかってくるこの極限状態の中、ロイは再び笑った。勝利を確信したものか、 それとも強い者への敬意か。
「いいや、終わるのはそっちだ!」
 不意に、ロイが懐から黒い物体を取り出した。そして、それを本体のペインがいる方向へと投げつける。
 次の瞬間――、
 激しい閃光と轟音。黒い物体がまばゆい光の中で砕け散り、その直後ロイとペインを大きな地響きが襲った。 真紅の炎が広がり、身を焦がすような熱風がお互いに牙を剥く。
 そのあまりにすさまじい衝撃と突風で、数十体いたペインの幻影は一瞬にして消し飛んでしまった。 それどころか周りに分布していたCスチームも爆風で吹き飛ばされている。
「くくっ、なるほど。爆薬か!」
 襲いくる砂煙に、マントで口元をおさえながら、ペインはほくそ笑んだ。
「爆風で領域を排除。考えたな。だが――」
 が、その瞬間、ペインの前に立ち込めた黒煙に小さな影が映ったかと思うと、それは煙の中から突然現れた。 黒く細長い物体は、煙の壁を突き破りペインの腕に直撃する。
「ぐっ」
 思わずうめくペイン。煙の向こうから現れた物体は、弾かれたように黒煙の向こうへと消えていった。
 奴め、血迷ったか。
 ペインは思わずロイがいるであろう、黒煙の向こう側を睨みつけた。
 先ほどペインの腕に直撃したのは、明らかにトゥルース・ソードだった。 濃い煙のためその姿をはっきりと見ることはできなかったが、黒い剣身、確かにトゥルース。ロイは自分の武器を投げたのだ。
 あの一撃で自分を仕留めるつもりだったのだろうが。
「くく、誤算だったな、ロイ=ストライフ」
 ペインが手甲から鉤爪を出した。
「これで貴様にはもう武器はない。こちらにはあいにく、まだ片方の武器があるんだよ!」
 懐からCケースを取り出し、それを地面に叩きつける。
 軽い金属音と共に、Cスチームが吹き出し、辺りは再び幻影空間に包まれた。
「さぁ、これで終わりだ!」
 ペインが地を蹴った。その手にある鉤爪で、獲物を引き裂かんと、煙の壁を突き進む。
 ロイとの距離は、推測で六、七メートル。あと一つ踏み込めば、鉤爪はその体を真っ赤な鮮血と共に引き裂くことができる。
 ペインが勝利とその先にある悦楽に、顔を歪ませたその時だった。
 軽い空を切る音。
 直後、ペインの前方に広がっていた幻影空間が切り裂かれた。ぱっくりと割れた、色彩が歪む幻影空間は音も立てず霧散する。 一条の閃光。そしてその先に現れたのは――、
「やっと、自分から来やがったな!」
『トゥルース・ソードを手にした』ロイ。
「なっ!」
 あまりに唐突で、理解不能な事態にペインが一瞬動きを止める。その瞬間をロイは見逃さなかった。
 もはや目と鼻の先にまで間合いを詰めていたペインの胸倉をロイがしっかりと掴む。
「つーかまえたぁ〜♪」
 まずは右頬に強力な一撃を叩き込む。重い衝撃と共に大きくぐらつくペイン。続いて腹に膝蹴りを一発、二発と叩き込む。
「ぐっ、は……」
 ペインと比べても決して劣っていないロイの一撃一撃に、ペインはうめき声を上げた。恐らく、 彼がここまで攻撃を受けたのは生まれて初めてだろう。その衝撃にペインの行動は一切止まってしまっていた。
 鳩尾にボディブロー。さらにロイはペインをぐいっと自分の顔近くまで引き寄せた。
「そうだよなぁ。幻影戦闘術を主体とする奴にとっちゃぁ、領域の有無は死活問題だからなぁ、 それを破壊できる道具、トゥルースがさぞ目障りだったろうなぁ」
「き、きさま、まさか、あの時投げてきたのは……」
「正解。トゥルースを収納するホルスターでしたぁ。助かったぜぇ、ホルスターが黒くて。んでもって黒煙も手伝ってか、 おまえは案の定、あれをトゥルース・ソードと勘違いし、幻影を潰すものがなくなったと、無防備でこちらに突っ込んできた……」
「くっ!」
 ペインが身を捩った。手甲の鉤爪が突然飛び出し、ロイに牙を剥く。しかし、ロイの反応はそれよりも早かった。 すばやく身を反転させ、ペインの襟を掴み、背負い投げ放つ。すさまじい勢いで地に叩きつけられたペインは、 またも苦痛の表情を浮かべた。残された左手の鉤爪も、直ちにロイのトゥルース・ソードによって破壊される。
「さぁ、仕舞いだペイン」
 馬乗りになり、トゥルース・ソードの刃をペインの喉元に当てる。
「おまえの負けだ。答えろ。リィシナをどこに連れていった?」
「……」
 もはやペインは抵抗をやめていた。これ以上の戦闘は無意味だと悟ったのか、それとも自分が敗北を喫そうとしていることに、 大きな戸惑いを感じているのか。どちらにしても、今のペインからは、今まで感じられた「殺戮者」の臭いは完全に消え去っていた。
 そして、しばらくして、ペインは血にまみれた口を開いた。
「くくく……。貴様はまだ気づかんのか? 奴の本当の目的に……」
「本当の目的……だと?」
 ロイがゆっくりと立ち上がった。もうこれ以上ペインを押さえつけていても意味がないとわかったからだ。 それほど今のペインからは、闘争本能が消えていた。
「おまえはおかしいと思わんのか? あの爆発が起こってからもう十分は経ったはずだ。なのにそれ以外は何も起こらない」
「そ、そういえば……」
「ロイ=ストライフ。奴は俺よりも深い闇を持っている。そしてこのままいけば、どんどんその色は濃くなっていき、 いずれはあの小娘も飲み込む」
「おい、言え! 奴は、フューゲルはいったい何をしようとしているんだ!」
「よく考えるんだな。今日が何の日か……。治安管理局の人間であるおまえなら……、わか……る、だろ……」
 突然、ペインが沈黙した。目を閉じて、笑みを浮かべたのを最後に、一切の動きを止めてしまった。
 死んだ? 一瞬そう思ったが、あれくらいの攻撃で絶命するほど、やわな男ではないだろうし、何より息をしている。 気を失っているだけのようだ。自ら意識を封鎖して気を失わせる技があると聞いたことがある。そうすることによって、 余計な情報が外に漏れるのを避けるのだ。
 しかし、いったい何だ? フューゲルが企てた計画の真の目的とは。
 街中を幻影で覆ってしまうというテロをフェイクに使ってまでやりたいこと……。
 と、ロイは、一つ引っかかりがあることに気がついた。
 それはリィシナを連れたペインの部下が立ち去った方向。ここは工場が乱立している地域だ。それ以外は何もない。 あるとしたら、それは――、
 ロイはリィシナが連れ去られた方向を見た。周りを建物に囲まれて、見えるはずのないその先には、 確かに、フューゲルが最終目標とするものがあるのだ。
「セントラルステーションかっ」
そう、今日はコルトニウムの搬送の日。このザフトス市で押収されたり、不法に発掘されたコルトニウムは二年の間、 治安管理局の倉庫に保管される。そして毎年、隣街まで搬送し、そこにあるコルトニウム専用処分工場で、 特殊なやり方で焼却されているのだ。
 今日は、ちょうどコルトニウム搬送の日。二年間で溜まりに溜まったコルトニウムの数は、 それこそ膨大な数になる。フューゲルはそれを狙っていたのだ。最初からこんなテロなどどうでもよかったのだ。 蒸気機関車をのっとったフューゲルは、恐らくどこかで積荷を積み替え、国外へ逃亡でもするつもりなのだろう。
 そう、リィシナと共に。
 瞬時にロイの中に焦燥感と共に、憤りも湧いてくる。
 させない。させてたまるか。フューゲルがとんでもないことをやってのけようとしていることもそうだが、 何よりもそんなことにリィシナが利用されるのが嫌だった。どんどん堕とされていく彼女を見るのが嫌だ。 まるで自分の手の平から、大切な物が風に吹かれて消えていくような、悲しい感覚だ。ロイはそれにつき動かされた。
 プアアアアアアアアアアアッ!
 夜の風に乗って、遠くからけたたましい音が聞こえてきた。
 蒸気機関車の警笛だ。今の長さは「あと少しで発車するぞ」という合図だ。まずい、発車されてはどうしようもない。 しかし、ここから全力で走っても、どうあがいても五分はかかってしまう。ダメだ。五分もあれば、 蒸気機間車は一気にスピードにのって、地平線の彼方へと消えてしまう。
 くそっ、どうすれば!
 ロイが地団駄を踏もうと、足を上げたその時だった。
 再び赤く染まった夜の空に、もう一つ、警笛が響いた。しかし、今回のは蒸気機関車のとは違った。小さく、そして軽い。そう、 ちょうど車のクラクションのような。
 まさか!
 ロイは、地面に刺したままにしてあったトゥルース・ソードを手に取ると、その音が聞こえてきた通りの方へ顔を向けた。 夜の闇に包まれた、狭い路地の向こうにそれは見えた。
 暗闇の中に光る二つの光。ヘッドライト――、やはり車だ。
 ロイは車の前に飛び出すと、両手を広げて車に制止をうながした。車の方も、ロイが飛び出して来ることを予想していたのか、 それほどのパニックはなく停止した。窓が開き、その向こうから出てきたのは、
「ブラス!」
「ロイッ、話は後だ! 乗れ!」
 もう余計な詮索をしている場合ではない、ということか。ロイも大きくうなずいて助手席に乗り込んだ。 乗り込み終わらない内に車は急発進し、その激しさにロイは思わずシートに頭をぶつけてしまった。
「いててて……。おい、ブラス。何でおまえがこんなとこにいるんだよ」
「局でパースさん達の話を聞いたんだ。おまえが北工場地区にいるって言うから、この辺うろうろしてたら、突然爆発があっただろ?  だから場所がわかった」
 爆発というのは、ペインとの戦闘で使ったあの爆薬のことだろう。
「ヒュ〜、やるなぁ、おまえ。この車だって無断で持ち出したんだろ? 減給ものだぜ」
「誰かさんの真似をしてみただけだよ。それに……」
 激しい運転をしながら、ブラスがロイの成りをちらりと見て言った。
「おまえの方が無茶してる」
 顔が泥だらけ、制服もボロボロで下の寝間着は血に染まっている。ペインとの戦いで、ロイの体は満身創痍だった。
「それでも、おまえはまだまだ無茶するんだろ?」
「わかってんなら話は早ぇ、このままエンジンぶっ壊れるまで、とばしてくれ!」
「ああ、任せろ!」
 ブラスがアクセルを思いきり踏み込むと、車は高い唸りと共に速度を上げた。
 夜の闇に消えていく二人を乗せた車。その先には、ザフトス市が誇る蒸気機関車停車駅、ザフトスセントラルステーション。 そしてこの一連の事件の集大成となるものが待ち構えていた。
 


第7章 覚醒