第七章   覚醒

 深夜――全ての照明を落としているはずのザフトスセントラルステーションは、 そこに佇む黒い雄姿を送り出すため、多くの人員と共に目を覚まし続けていた。
広い構内。隣接都市トロス行きのプラットホームに停車した貨物運搬用装甲蒸気特急、 通称ストールは、先頭車両の蒸気煙突から断続的に排出される蒸気で、随時発車可能であることを主張した。
「まだなのか」
 しかし、紫煙の漂うザフトス市を凝視し、フューゲルは煩わしげに呟いた。成功を前にした者特有の気の逸り。 それが彼の平静を蝕んでいる。
 目的のコルトニウムはすでに彼の手の内にあった。ストールの警備、駅員を始末した今、 あとは今後の切り札となるリィシナとペインを回収するだけだ。
計画の発動は市の中心から離れたここからも確認できた。治安管理局SEMSフロアの爆発。 そして直後の閃光弾。ペインによるリィシナ奪還は成功し、それから十数分が経過していた。 予定ではそろそろこちらに到着する手筈となっている。
 フューゲルは、構内のロビーで親衛の男達に取り巻かれている。その周囲には局の鉄道警備隊員達が倒れ臥していた。 彼らは皆、息をしていない。一様に浮かべた、突然常識の範疇外のものに遭遇したような死相は、 それが幻影を伴って行われた殺戮だったことを表している。
 フューゲルは嘆息一つついて、再び紫煙の向こうを凝視する。元々駅周辺は商業地と倉庫街が広がっているため、 人通りはない。たちこめる紫の霧だけが、ジェミニであるフューゲルの視界に入り、同時にその中に変化を見つけ、 口の端をつり上げた。
「来たか……」
 男の背にもたれかかっている少女を確認し、フューゲルは身をひるがえした。 ペインの姿がないことが気になったが、ここまできてしまえば、彼自身必要のない人物だ。
早々と自分を納得させ、フューゲルは発車の警笛を鳴らすよう指示を下した。

『高級住宅地区。メル=ラングワートにより鎮圧完了。レベッカ=フェルゲート確保』
『住宅地区Dエリア。犯人はロベッツ=フェルゲート及び武装した男数名。ディル=マク ドガルと現在、交戦中』
『工場地区にて、ラング=フェルゲート逃亡。現在、バードック=ゴーツが追跡中』
 状況発生から十五分。PASオフィスに寄せられた報告に、ウヌラートはなんとか溜飲を下げることができた。 咥えていたパイプを机上に置き、執務椅子から立ち上がる。
ペインの放った爆弾により、窓ガラスは煤で黒くなっている。きゅきゅっ、 と抵抗音を発する窓を少し強引に開かせた。吹き込んだ風の中で、煙の匂いが鼻を突いた。 この風にもCスチームが含まれているのだろう。
見渡すと、市内は幾分沈静化しているように見える。パニックの原因である、 街を覆っていた幻影が消え去ったのが大きな理由だろう。未覚醒のジェミニの暴走も心配したほど発生している様子はない。 だが、各地の爆発による火災・家屋の倒壊など、二次災害による混乱はまだ続いている。 負傷者はどれほどになるだろうか。出動した局員たちの活躍に期待するしかない。
「局への再襲撃はなし……か」
 テロの目的が局の壊滅にあるのなら時期は完全に逃している。やはりパースの予感通り、 本当の目的は貨物蒸気機関車に積まれた大量のコルトニウムか。
「駅の警備撹乱のためだけにここまでできるものなのか。……常軌を逸している」
 ファントマビリティを持たないウヌラートにとって、コルトニウムの価値はただの石炭と何ら変わらない。 幻影を行使する者にとって、あの物質はどれほどの意味を持つというのだろうか。与えられた金銭的価値以上に、 あるいは蠱惑的な魅力があるのかもしれない。
 彼の少し離れたところで、同じく外の様子を眺めているパースに目をやる。彼女も同じジェミニだが、 今までコルトニウムに固執したところは、ウヌラートであっても見たことがない。
 幻影を創り出すといわれている、紫の瞳に映し出すのは、彼女のミステリアスな美しさだけである。
 ふと、パースがこちらに視線を向け、一つ頷いた。
ウヌラートは気持ちを切り替えるように息をついた。そして振り返り、オフィスに残っているテロ対策二係の面々に向かい、 指示する。
「諸君、今すぐ出動だ。状況は変わったぞ!」
 その時、遠く、この時間には決して鳴らないはずの警笛が鳴った。

 直下からの衝撃が傷を嬲りつつ、身体を宙に浮かせた。
「いっででででっ」
「舌かむなよ? ほら右曲がるぞ!」
ハンドルが切られると同時、剥きだしの地面を車輪がえぐった。慣性のついた車が強引に力の方向を曲げ、 しかし巧みにバランスを保持しながら倉庫街を進む。
 車は限界まで速度を絞り出していた。前から迫る倉庫群が、その形状を認識する間もなく左右を流れ去っていく。 臨界間近に達したエンジンは断末魔に似た悲鳴を上げていた。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな」
 ブラスは道が直線になった辺りで尋ねてきた。それは自分にあてられたものか、 それとも敵の手に渡ってしまった少女にあてられたことか、どちらにしても――、
「心配するより実行が先だ」
「正論だな。ところでだ、ロイ」
 ギギィイイイ――ッ!
 ロイが聞き返す前に、直線を走っていた蒸気車が急角度で左折した。今まで左右の視界を遮っていた倉庫群が途切れ、 見渡す限りの大平原が現れた。今は夜の闇で遠くまでは見えないが、遥か向こうに見える山々の輪郭のみが、 月や星の明かりに照らされて、うっすらと確認することができる。そして視界の先を漆黒の長蛇が横切っていく。 そんな光景をロイは目の当たりにした。それは貨物運搬用装甲蒸気特急――ストールだった。
「着いたぞ。切符を用意しとけよっ」
 さあどうする、と言いたげな口振りで、ブラスはすぐさまハンドルを切り、蒸気車を併走させた。 助手席に座るロイの横を黒い大蛇が悠然と走り抜けていく。それを窓越しに確認するや否や、ロイは何の躊躇もなく、 ドアを蹴り破いた。けたたましい音をたてながら、外れたドアが、あっという間に後方へと消えていく。
「飛び移るぞ。もっと近づけろ!」
「安心した。残酷なことじゃないかと聞きあぐねていたんだ」
 言葉とは裏腹に、それを当たり前のように受け入れ、ブラスは車をストールに接近させた。市街を抜け、 とっくに舗装の途切れた荒れ地の上を、砂礫をまき散らしながら車は走った。
「で、覚悟は?」
「へっ、――んな心配はなあ!」
 更なる接近。ロイはトゥルース・ソードを手に、窓枠に足をかけて車輌の上によじ登った。 不動のはずの大地が濁流のように眼下でうねっている。ストールとの距離は二メートル強程度。 これ以上はレール下にある盛り土のせいで近づけない。落下すれば死は確実だが――。
「PASには必要ねえんだよッ!」
 自由を奪おうと吹き付ける風もねじ曲げ、驚異的な脚力が彼を虚空へと押しやった。
彼の目の前にコルトニウムを積んだ貨物車輌の最後尾が現れた。手は届く。だが対武装集団用の厚い装甲に掴み所はない。 彼はソードに全体重を乗せた。その厚い表皮に剣尖を突き立て、見事取り付いてみせる。
「なんちゅう奴だ……」
 ブラスは蛇の尾を確かに捕らえたロイにそう呟き、臨界を越えた車を減速させた。
 無事ストールの貨物車輌上部に辿り着き、愛剣を引き抜いたロイが親指を立てて見せて、刑事課の相棒もそれに応じた。 やがて車のライトが離れていく。
「さて」
 ロイは前方から吹き付ける強烈な風に、激しくはためく上着を押さえた。気を引き締め、 長々と続く貨物車輌の屋根を見据えて、彼は走り出した。
 ペインとの戦闘で失った体力は、あの上下振動の絶えない車の中でもいくらか回復ができた。
「――リィシナ」
 目的はリィシナの救出とフューゲルの確保。二人は同じ場所にいるだろう。ならばこの貨物専用の機関車の中では、 機関室か待機用車輌のどちらかにいると考えるしかない。
 吹き付ける風を前傾してやり過ごしながら貨物車輌間の隙間を跨ぐ。前方の、最後尾から三輌目の車輌が、 足元の無骨な直方体と形状を異にしていた。貨物車輌より屋根の位置が高いそれは、前後左右の側面に車窓が設けられ、 人口的な照明を漏らしている。
待機用車輌。しかし、その中には目指す人物の影はない。かわりに四、五名の武装した男達と視線が合った。
「だ、誰だお前はぁ!」
 後方側面の乗降ドアからわらわらと出てくる男達に、ロイはうんざりした表情で頭を左右に振った。 暗がりにいる彼の姿は男達からは見づらいようだ。だから、名乗ってやった。
「PASの――ロイ=ストライフだ!」
 抜き身のトゥルース・ソードを一振り。右脇の下で突きに構えたロイは、一気に貨物車輌上を駈け出した。 男達は僅かにたじろぐも、距離の開きは奇襲の成功を阻んだ。
 車輌の中で伝声管に向かって男が叫んでいる。先頭車輌への報告を妨げさせないよう、四人の男がロイの前に立ちはだかった。
「どけよっ!」
 強風をものともしないロイの斬撃が、あっという間に男達の短刀を手から離れさせ、敵を手際よく昏倒させる。
 伝声管を触っていた男は、この劣勢を見て先頭車輌へと逃げ出そうとした。ロイはすぐに待機用車輌に入り、 男の頚部をトゥルース・ソードの柄で殴って男を気絶させる。
軽く肩で呼吸しながら、ロイは立ち止まることなく無人の車輌を進んだ。
「もうすぐだ。……待ってろよ。リィシナ」

ひどい倦怠感。身体が重い。頭が働かない。眠っているのか、起きているのかすらわからない。 でも目は見える。耳も聞こえる。他の感覚もちゃんとある。だけど、動けない。
 まるで夜の海に沈んでいくようだ。遙か上にはゆらゆらと水面が揺れている。そこに誰かがいた。 父と知らない人達と、それとあと一人は――。
「後列の連中からです。PASを名乗る男が侵入してきたと」
「ではペインは破れたのだな。ち、偉そうなのは肩書きだけか」
 あわてている男の人達の中、父だけがどこか余裕を持っている。
「ロイ君が来たようだ。支度をしなさい」
 父はあと一人に向き直って、しわのある顔を微笑ませた。温かくて、優しい顔だった。
「わかったね。リィシナ」
「…………はい……」
 その少女は微かに返事をし、普段通りに笑みを浮かべた。
 ――言うことハ聞かなきゃね。いつも言ッテたでしょう?
 それは以前、何度も聞いた幻聴と同じ声だった。

待機用車輌を抜け、ロイは再び貨物車輌の屋根の上を走った。
視界の先に先頭車輌、つまり機関室の明かりが小さく見える。その蒸気煙突から吹き出す蒸気が、 そろそろ無視できないほど濃さを増していた。機関室の屋根は待機用車輌と同じく高めになっている。 おかげで蒸気はロイの頭上を暗幕のように覆うだけで、直接視界を遮られることはない。 左右を流れる風景は荒野のままで、それ以外に目印となるような灯りは何一つない。 走行音と揺れる足場、そして吹き付ける向かい風が神経をすり減らす中、ロイは集中力を欠くことなく貨物車輌の上を進む。 そして、不意に立ち止まった。
「あれは……」
 距離にして貨物車輌二両分。明かり漏れる機関室の前に、いくつかの人影が現れた。
 背後からの機関室の人口光に照らされ、白く象られた輪郭達の中央に、中肉中背と、小柄な人物の影がある。
「リィシナ!」
 思わず声が上がる。周囲の体格差から推測するまでもなく、ロイはそれがリィシナであるとわかった。更にその傍らに佇むのは――。
「黒き凶風を退けたか。流石、憎んであまりあるPASの人間だな」
 ――男の声。黒幕の、フューゲル=フェルゲート本人。
 途端に胸の奥から湧き上がる衝動を抑え込み、ロイは目元を歪めた。
「お褒めにあずかり反吐が出る思いですよ、社長。あれだけ好き放題やらかして、あまつさえこんなものまで持ち出して……一体、 どちらまで?」
 ごんごん、と足元で二、三度音を鳴らす。
「PASに旅先を申告する義務はないな。それとも何かね? 外務局に変わって旅行手帳でも届けに来てくれたのかね」
 影の周囲で小さな笑いが起こる。取り巻き達の、愛想だけの笑い。
「へっ。そうだと俺も仕事が楽なんだがな。正直、もうてめえは罪状並べるのもめんどくせぇんだ。全員黙って投降しな。 そして、リィシナを解放しろ!」
 フューゲルが傍の小さな影をトン、と押した。ふらふらと、揺れる足元のせいか頼りなく、 そして奇妙に揺らめきながら影は歩いた。
「……リィシナ?」
 呼びかけに応じる様子もない。ほんの二日前、最後に見た彼女とは、明らかに異なる。
「……おい、リィシナ!」
影はやはり無言だった。最悪の予感。そんなものがふつふつと溢れ出てくる。
「おまえ、まさか……」
「薬というのは便利だな。精神と身体を根本から造り替えることも簡単だ。この意味がわかるか? つまり、 君の声はもう聞こえないということだ」
向きを変えたフューゲルの顔が、邪悪な笑みと深い陰影を刻んで浮かび上がった。
 突然、車体が揺れた。両足で耐えられるほどの小さな揺れだったはずだ。しかしリィシナの影は簡単に貨物車輌に倒れた。 反射で両手をつくことなどしない。ただ無様に、まるで糸の切れた傀儡のように。
「立て」
 主の命令に、ゆらりと立ち上がる彼女。そこに本人の意思というものは皆無だった。フューゲルが低く笑った。
「どうだね。見事な教育成果だろう。まだ多少おぼつかないがね」
「教育だと?」
 かすれた声で聞くと、フューゲルは、ああそうだ、と肯定した。
 ロイは底冷えするような冷視を向けた。
「ルイジェルから大体は聞いた。薬なんざ使って教育だあ? てめえ、 リィシナがどんな気持ちであんな振る舞いをしていたと思ってる! 全部おまえらの――家族のためだったんだぞ?」
「ははは、わかっていたとも! だからとても助かったと言っている!」
「――っ!」
そこに鳴る必要のない警笛が鳴り響いた。荒野に沈む夜気を震撼させるストールの咆哮。 コルトニウムという幻想に取り付かれた男の破綻した精神の遠吠え。
「さあ、始めようか。我々に投降の意志はない!」
 フューゲルが右手を振り上げると、機関室の屋根に取り付けられた作業灯が戦場を照らし出した。光に当てられ、 少女の姿が露わになる。その虚ろで濁った瞳にロイが映された。いつか廃工場で感じた殺気が、彼を貫く。
ぎりっと歯を軋り、トゥルース・ソードを握る手に力を込める。ロイの強い握力が、柄を握り潰すほどに引き締められた。
「リィシナ」
 今、ロイの中にある気持ちは、彼女をこの苦境から救い出したい。この数日間の彼女を幻にしたくない。 ただそれだけなのだ。ここで喪失感に負けるわけにはいかない。彼の動悸がまた激しくなった。
「待ってろ。すぐに解放してやる!」
「ふっ、君にできるかな?」
 フューゲルの戦意に呼応して、周囲を取り巻いていた親衛達が展開した。彼を守るように二人、立ち上がったリィシナの傍に三人。
「存分にやれ、リィシナ」
フューゲルが懐からCケースを取りだし、放り投げた。貨物車輌の上にケースは割れることなく転がる。 だが不発ではなかった。次の瞬間、そのケースの先端から白色を持った気体が噴出し、作業灯の照明の中に消えてゆく。 無色透明となった気体は風に流れ、フューゲルとロイの直線上に常に拡散し続けた。 Cスチームを連続噴出する新型Cケースか。空気の動く蒸気機関車の上で領域を維持するには確かに最適だ。 そして、ロイの視界が予告なく黒煙に閉ざされた時、戦いは始まった。
 風を押し、ロイは走り出す。次々と新しいCスチームが流れてくるこの空間では、 周囲の幻影を多少トゥルース・ソードで斬っても効果がない。黒煙を纏ったまま、まずはリィシナの傍の三人に狙いを定める。  相手の殺気が動く。瞬間、ロイは全力の剣速で黒煙を振り払い、回復した視界の中で男達を睨め付けた。 視界が再び閉ざされる。ロイは構わず最も近い男へと突進。男の身体が垣間見えた。同時に頭上から振り下ろされる殺意を避け、 一瞬で背後にすり抜けた彼は、男の首筋を殴りつけた。さらにすぐ傍の男の急所に一撃を入れ、昏倒させる。 視界が閉ざされた時には、ロイは残りの一人に向けて間合いを詰めていた。
「リィシナ!」
 フューゲルの声。ロイは不意に側面に殺気を感じた。とっさに構えを引き、脇腹を狙った何かを斬り払う。 その時生じた隙に、ロイは舌打ちした。傍の男の斬撃を気配だけで避け、後方へ跳躍。距離を稼ぐ。
ナイフか?
 突然現れた殺気の正体を想像しながら、ロイはすぐ横でストールの車輪が猛烈な走行音を発しているのに気が付いた。 落下の危険を避けるため、貨物車輌の中程に移動しようと足を進める。視界がゼロの状態だが、 男達とリィシナの位置だけは忘れない。――しかし。
「ぐあっ!」
 前触れもなく何かがロイの背を貫いた。皮膚から内臓器官にまで走る激痛に、彼はその場に手をつくしかなかった。 その時、男の足音が近づいてくる。ロイは痛覚を無理やり受け流し、横に転がった。 ぎりぎりのところで、敵の短刀がストールの装甲に弾かれて音を立てる。その隙にロイは男の腹に蹴りを叩き込んだ。 相手の悶絶の声を聞きつつ、彼はすぐに立ち上がって周囲の黒煙を消滅させる。
背中を突き破るような痛みはまだあった。それでも視界の確保を先決させ、周囲の敵の配置を確かめる。 一つ向こうの車輌にフューゲルと親衛が二人、そしていつの間に戻ったのか、リィシナの姿が見えた。 近くにも背後にも動ける敵はいない。
「……っはぁ、幻覚か」
 呼吸を荒げるロイに、相手はほくそ笑んだ。
「ペイン仕込みだよ。私の切り札だ」
 そう言ってリィシナの頭を優しく撫でる。彼女は喜びの感情も表さず、ただこちらを虚ろに眺めていた。
「わかったかね? わざわざ治安管理局からこの娘を奪取した理由は。 リィシナは類い希なファントマビリティを持っているのだよ。この条件下で!  この領域密度で幻覚をも創ることが可能だ! あの黒き凶風以上だ!  くくく、他のクズはせいぜい広範囲の幻影を創り出せる程度なのだよ。PASの対抗手段としては何ら役に立たない!」
「だから……だからあいつらは捨て駒だったってのか……!」
「ルイジェルに至ってはそれ以下だったよ。目くらましどころか、主人に噛み付きさえする。なぁ、ロイ君……?」
「もういい!」
 怒声。動悸が胸を灼き、汗が全身の汗腺という汗腺から噴き出してくる。熱く、冷たい感情。 穏やかな怒気が、意識を蝕む幻覚作用を上回って、存在するはずのない傷の痛みを、在るべき虚無へと還した。
「フューゲル! てめぇ、幻覚を使うってことがどういうことなのか、わかってるのか!」
「充分理解しているとも。しかし、このリィシナならそれも造作もないっ!」
 フェルゲートの敵意にリィシナのファントマビリティが呼応する。幻影犯とロイの間を今度は隙間なく黒煙が立ちこめた。 その中を直線状の殺意が数条迫る。
 ロイは手に持つトゥルース・ソードの柄を返すと周囲のCスチームを斬り裂いた。 刃状の幻覚は彼に届く前に、正常な空間の中へと掻き消えてゆく。その隙を縫って、 彼は瞬発力を最大に引き出して敵との距離を詰めた。
 フューゲルが二人の親衛に指示を下した。短刀を構えた男達が立ちはだかる。
 再び立ち込めた黒煙の中に、男達以外の気配が混じった。ロイはそれを察知し、 小さく左に跳んだ。直後に小さな弾状の、しかし不可視の塊が高速で現れ、ロイをかすめて黒煙へと消えていった。 かと思うと、それはすぐに鋭角的に軌道を変え、彼を狙ってくる。しかも、男達の連携攻撃には隙間がない。
「くっ」
 ロイは弾の射線軸にあるCスチームをトゥルース・ソードで斬り裂いた。 直進していた幻覚は通常空間に触れると虚空に消え、それを感じながら同時に男達の攻撃を弾く。
――攻撃が正確過ぎる!
一人の男と鍔迫り合った一瞬、ロイはその理由がわかった。車上を覆い尽くしたと思っていた黒煙は、 男達の周囲だけきれいに取り除かれている。幻覚を繰り出しつつ、動き回る味方の視界を保つ。 これを本当にリィシナがしているなら、彼女のファントマビリティは、フューゲルの言うとおり並の群を抜いている。 あのペインも、パースすらも凌駕するだろう。
 塊が再び現れる。それも、今度は複数。いくつものパターンで迫るそれらの一つを斬り、 ロイは男の短刀を弾き返す。体勢を崩した相手が黒煙の中に垣間見えた。すかさず剣の腹で下顎を強打し、 その反動をもって弾丸の軌道から身体を逸らす。だが、僅かに間に合わず、ロイは幻覚に左腕を貫かれてしまった。
「――ッぐ! 効かねえっ!」
 幻覚の暗示力を上回る自己への暗示。激痛の残滓を無視し、残る男の懐に入り込んだロイは鳩尾に向けて拳を叩き込んだ。 男の動きが止まり、ロイは背後に迫った幻覚を振り向きざま一閃。その勢いを殺さず、 柄尻を呻く男の脇腹に抉り込ませた。唾液を撒き散らして最後の親衛が崩れ落ちる。息つく間もなく、 ロイはそのままフューゲルへと向かった。
「やれ、リィシナ!」
 その声に彼女が応じる。ロイとフューゲルの間に無数の何かが生み出され、それぞれが確かな殺意を持つと、 隙間のない程ロイに襲いかかった。
 ロイはトゥルース・ソードを前方に掲げ、身を低くして突き進む。弾丸状のもの、ナイフ状のもの。 幾種もの幻覚は容赦なく彼に集中し、ソードに守られた急所以外の部位を斬り刻み、貫いていく。 ロイはこそぎ取られてゆく精神力で自己に暗示をかけ続けながら幻覚を無効にしていった。
「ふふっ」
 黒煙の奥で目指す男が嘲り笑う。と同時に、ロイの目の前に黒装束の男が現れる。 その男は薄く笑い、手甲から飛び出した鉤爪をロイへと突き出した。
「――ペインッ!」
 反応する暇もあらばこそ。ロイは避ける間もなく暗殺者の鉤爪に貫かれ――そして、何の痛みもないことに気付いた。
「幻影だよ。私のな!」
 直後、ロイの精神の隙を幻覚が真横から貫いた。脇腹から肺にまで達する幻覚作用。 ありもしない衝撃を伴ったそれは彼の身体を吹き飛ばし、貨物車輌の上に転がした。
更に、彼の手からトゥルース・ソードが離れた。黒い愛剣は照明の下を軽い音を立てながら滑っていき、 連結部分の隙間へと落下する。
ガタンッ
一瞬、車体が上下に揺れた。何かが壊れる音が、ストールの激しい走行音から僅かに顔を出し、すぐに呑み込まれていく。
「くそっ」
ロイはなんとか取り戻した精神力で呼吸器の痛み――幻覚作用を押し返し、身を起こした。しかし、 すぐに来ると思っていた幻覚の攻撃は、なぜかなかった。弾丸やナイフはもちろん、黒煙までも消えている。 平常な空間が車輌の上に戻っていた。
これは一体――、まさかっ。
彼は少女の姿を探した。視界を閉ざすものもなく、すぐに彼女は見つかった。
「リィシナ……」
彼女は苦しんでいた。精神力を要する幻覚を連続した反動か。それとも薬のせいか。彼女の身体は限界を来していた。 今まで虚ろだった瞳を大きく歪ませ、肩を小刻みに上下させている。だが、駆り立てられるのだろうか。 そんな彼女の周りに、再び黒煙が生まれ始めた。
「リィシナッ、これ以上はだめだ! おまえの身体がもたない!」
「何を言っても無駄だと、何度言わせるか!」
「黙れッ!」
 一喝がフューゲルを射抜いた。
「リィシナ!」
 呼んでみても、やはり返事はない。自分の思惑通りの結果に気を取り直したフューゲルが、 最後の、トゥルース・ソードを失った彼を仕留める最後の命令を下した。
「やれ! リィシナ!」
 彼女の瞳が大きく見開かれ、その周囲に黒煙と不可視の弾丸がいくつも発生する。
「くっ!」
ロイは瞬時に前方へ跳躍した。すぐ横をかすめた高速の弾丸が、鋭角的な軌道修正をしながらロイの背中を狙った。 更に、右足と左腕に激痛。ロイの動きを止めるための、幻影を介さない対象意識への直接干渉。 それでも突き進む彼に黒煙が覆い被さり、視覚情報の全てを遮断する。
「――っ!」
 黒煙の中に弾丸の全てが打ち込まれた。幻影に在るはずのない、肉を抉る音が弾の数だけ聞こえた。 少女の創り出した幻覚は、黒煙の中から二度と出てこなかった。
「よくやった。リィシナ、幻影を下げ――」
「――て、いいのか!」
 油断した一瞬。黒煙から飛び出した声の主は、その時すでにフューゲルの足元近くにまで辿り着いていた。
 ロイは少女の名を呼ばれるより早く、フューゲルの顔面に何かを投げつけた。直後に絶叫が上がり、 フューゲルは顔の皮膚に灼きつく熱さに、思わずそれを振り払った。
 中空で大きな弧を描く物体――それは空気と触れ、高熱反応を起こしたCスチームを内在した容器、 Cケースだった。そして、Cスチームを吐き出し続けながら、それはストールの周りに流れる濁流の中へと落下していく。 車上から、紫色の領域が急速に失われていくのが、ジェミニであるフューゲルの瞳にはっきり映った。
 残っていた黒煙が、それに伴って頭上の蒸気に紛れて消えていった。
その様子を見てから、ロイはゆっくりと立ち上がる。激しく上下する肩。顔色が蒼く、 滲み出た多量の血が制服を染め、高熱のCケースを掴んだ右手は火傷がひどかった。
「貴様っ、どうして」
 顔面を押さえながらフューゲルが問う。幻覚の弾丸を何発も受けたロイが、なぜ動いているのか。 それ以前に、なぜ生きているのか。状況は、彼の理解を超えていた。
「……防いだのか? あの幻覚を」
「喰らったさ。全弾な」
 ロイは心身共に疲弊した身体でフューゲルに近づいていく。
「く、くそ!」
 呻き、懐からCケースを取り出す腕をロイの左手が掴んだ。意識に直接干渉を受けて動かなかったはずの左腕は、 痛みを僅かに残して自由を取り戻していた。同じく右足も。
「ただ、……所詮は幻覚。存在するはずのない感覚だっただけだ」
 掴んだ腕ごと身体を引き寄せ、フューゲルの腹腔に膝蹴りを叩き込む。
 ドゴッ、という衝撃がフューゲルを貫き、咳き込みながら膝をつく。その胸ぐらを掴み上げ、 火傷した右手で思い切り顔面を殴りつけた。鼻血を流し、手を放すと崩れ落ちる男の腹を最後に容赦なく蹴りつけ、悶絶させる。
 彼はまともに動けなくなったのを確認して、リィシナに走り寄った。彼女は辛そうに呼吸を繰り返し、 力なくその場に座り込んでいた。
「リィシナ……。リィシナ、大丈夫か」
 何度目かの呼びかけで、彼女は薄く目を開けた。彼が痛い所を聞くと、小さく首を振る。意識はあるようだ。 だが、幻覚の行使で彼女の精神が崩壊するまで、あと何度もなかったに違いない。それでもロイはとりあえず胸をなで下ろした。 そのせいか、ストールが走り続けていることに意識が行くだけの余裕が彼に生まれた。だが少女の疲弊した姿にロイはやや逡巡する。
「悪い。ちょっとだけ待っててくれ。まだ機関室に野郎の手下がいるはずだから、そいつらやっちまって、 すぐにこの機関車を止める。そしたら風の当たらないトコまで連れてってやるからな」
 カラン。
 後ろで音がした。金属製の容器が転がるような軽い音だった。
「ロ………イ」
 腕の中のリィシナが何かを訴えようとしていた。そして、その意味に気付くより前に、彼女の瞳から発せられた弾くような衝撃が、 ロイを容赦なく吹き飛ばした。
「――なっ」
 貨物車輌の上を転がされ、連結部の隙間の寸前で身体は止まる。痛む胸にかばいつつ、 上半身を上げた彼は、倒れた少女と気体を噴出するCケースを見た。
「リィシナ……?」
 焦点は再び少女に当たる。
「おい、リィシナ!」
 彼女はまるで壊れた人形のようだった。
「くそっ、最後の最後で壊れたか。……だが、まだだ!」
 その後ろで、かすれた呼吸をしながら男が立ち上がった。
 顔面の皮膚を火傷でただれさせ、男――フューゲルは、怨嗟の形相をロイに向けた。
「ここまで来て、諦められるかああっ!」
 少女はもう動かなかった。ピクリとも。そう、それはまるで命を失くしたように。
喪失感が、彼の胸に止めどなく溢れ出した。
「貴様ぁああッ!」
 気付いたら、殴りかかっていた。

「お願い、創らせて! お父さん、創りたい! もっと幻影を! 幻覚を!」
 胸をかきむしり、頭を抱え、震え、彼女はその場に膝を折る。不安定な呼吸。喉の奥から漏れ出る悲痛な呻き。そして、
「お願いだからもっと創らせてえええッ!」
 まるで禁断症状に苛まれるように叫び散らして、リィシナ=フェルゲートの姿の彼女は、脆く崩れだした身体を強く抱きしめた。
 周りは暗い。夜の海中にいるような浮遊感と不安感がある。そこには自分と彼女だけがいた。 頭上の揺れる海面には外の光景が映っている。耳には外の音と癇癪を起こした幼子のような彼女の叫び声が入った。
何、これ?
 リィシナは彼女の正体を知った。父の言葉が本当ならば、彼女は私の能力を自在に操るための装置のようなものだ。 父に忠実に従って幻覚を創り、ロイに攻撃を仕掛ける。
 なのに、目の前の彼女は何だ。悶え苦しみながら彼女が望んでいるのは、父に従うことではない。 幻を創り出すことだ。忠実なのは父にではなく、深く底の見えない欲望にだ。
 そんな亡者のようなものが自分の中にいたことが信じられなかった。
「ああアあッ、っあアアあああああアッ!」
 彼女はひときわ高い声を上げると、リィシナに飛びかかり、胴から下に腕を回した。
冷たい感触。いや、元々体温は持っていないのかもしれない。腰に回される彼女の腕を感じながら、 リィシナはそう思った。彼女の姿は自分と同じ。その彼女はガラスのごとく下半身を砕けさせ、腰から上だけで取り憑いている。
「崩れなさい……あなたもねえ!」
彼女はニマリと笑った。すると、リィシナの身体も触れられた所からひびが走る。 腰から足にかけてそれは広がり、すぐに表面の脆い部分から割れ始める。
「崩れる?」
不思議と怖さはなかった。身体が割れる感覚は、自分が生まれてから感じてきたもの、 学んだもの、積み上げてきたものが、見ず知らずの誰かに一蹴されるような、空虚で、ど ちらかというと悲しさが込み上げるものだった。
「貴様ぁああッ!」
 外ではロイが父に殴りかかっていた。残り僅かな力を振り絞り、彼の拳が父の顔面にめり込む。 その衝撃に二、三歩下がった父は、動かなくなった彼女をあてにはせず、ただ殴り返した。自分で幻影を創ることもしない。
 その時、パリンと音がして、身体が軽くなった。
「ほら、あなたの足、なくなっちゃったよ? このまま頭までなくなろうか!」
 彼女は哄笑を上げる。リィシナを巻き込んだ崩壊は、次は上半身に伝わってきて、さすがに焦りを感じた。 何とかしなければ。でも、こんな状況を切り抜ける方法など彼女は知らない。
ロイ、どうすればいいのかな?
 見ると、争いはロイの優勢に進んでいた。父のしわの刻まれた拳がロイの頬をかすめては、 彼の切り返しの打撃が確実に父の体力を奪っていく。それでも、もはやロイの常人離れした体力が残っていないのは確かだった。
「許さない! あいつは――あいつの精神はもう限界だったんだ! おまえにそれがわからなかったはずがないだろ!?」
 拳と共に放ったロイの訴えは、父の体をくの字にし、苦しげな笑いを浮かばせた。
「リィシナは道具じゃない! ルイジェル達だって、てめえと同じジェミニだろうが!  そうやっていろんな奴を駒にするのがそんなに楽しいかよ! 自分の家族をよぉッ!」
 父は何も答えず、胸ぐらを掴むロイの下顎を殴り上げて、荒々しく肩を上下させる。
 半歩下がったロイは背のバネを使って、姿勢を戻すと同時に思い切り父を横殴りにした。そしてバランスを崩す父の肩を掴んで、 頭突きを繰り出す。低く呻いた父は無様に後ろに倒れ、肘をつくしかなかった。尻餅をついた父は、ボソリとその口を動かした。
「ああ……駒さ」
 ドズッ、という耳障りな音がした。父の取り出した小さなボーガンの矢が、ロイの脇腹の肉を突き破っている。 顔を鋭い激痛に歪ませて、ロイが動きを止めた。
「ロ……イ!」
 リィシナのかすれた声は彼には届かなかった。その時初めて、リィシナは突き上げるような恐怖と悲しみに襲われた。
「そう、そうよ! 恐れなさい! もっと悲しみなさい! でないと――」
 ひびの先端を首にまで走らせて、彼女は追いつめられた声を漏らす。もはや乾燥した土くれのようなその両手が、 リィシナの身体を這い上がってきた。
「駒だとも……。私を取り巻く者の全てがな」
 父が立ち上がる。定まらない照準で撃った矢が、今度はロイの右足に突き刺さった。
「やめて……」
 激痛に堪える彼の声が胸に突き刺さる。リィシナは彼を父のボーガンから守ろうとして、 そこへ行くための足がないことを初めて悲観した。
「どこに行くつもりだったノ?」 
 肩から上しかなくなった彼女が、かろうじてしがみついて笑う。彼女の『死』はどう見ても間近だった。
「離して。私はロイのところに行く」
「ダメ。壊れテ。ワタシと、一緒ニ!」
 より強くしがみつこうと曲げた指の関節が欠ける。それをきっかけに左手が崩れ、腕が割れ、なくなる。 そして最後には、右手だけでリィシナにぶら下がった。
「だっテ、そうでしょう。ワタシはゼロから創られたんじゃないモノ」
 彼女の言葉が、リィシナの意識を否が応でも惹き付けた。
「ワタシは育てられただけ。……ただ、それだけヨ。だから、ワタシとアナタは同ジ」
「――っ!」
その先に残酷な事実を突きつけられたその時、父の声が聞こえてきた。
「ふふ、駒でなければ、この私が望むように踊る人形さ。私の思うように、私のために。全ての者は踊るのだ。宴は続けられる!  それでこそ私は初めて……」
「……弱い奴だ」
父の動きが止まった。
苦痛を伴いながらロイが矢を抜いた。そして、まだ枯れない反駁心を父に向けた。
「それで報われるとでも言いたいのかよ。くだらねえっ! そこまでして気持ちを誤魔化さなきゃダメなのかよ!  弱ぇっ! くそ弱ぇよテメエ!」
 父はボーガンを構える手を震わせる。濁った瞳を見開いて彼を凝視した。
「ものをほざくな! 何も知らん貴様なんぞがあっ!」
 濁った瞳は涙を湛えて、最後の意思を宿していた。
父も、――そして彼女も。
「ごめんね。やっぱりあなたとは行けない。私、ロイに会えたんだ。自分の戻るべき居場所を見つけたの。だから」
彼女は彼女に告げた。そしてその瞳は……。

「……せない」
 彼女の澄んだ声が、父親をハッとさせた。ボーガンの狙いから視線を横へ。膝をついたロイも、それにならった。
 その異変はいつから起きていたのだろうか。ロイとフューゲルの二人を取り囲んだCスチームに、 劇的な変化が現れた。空気全体がまるで点滅しているかのように、光と闇を繰り返し、 知らぬ間に身を起こしていた彼女――リィシナの頭上に眩い光を集束させていく。
 やがて、風船のように膨張していった光の塊が臨界を越えると、リィシナの瞳が、確かな意志をもって前を見た。
「――ロイは殺させないっ」
 少女の唇が、はっきりとそう言葉を刻んだ。その彼女を取り巻く空気が白――いや、白光に染まり上がった。 口上を中断させたフューゲルは我が目を疑うような表情を作っている。
 大きく膨れ上がった光の塊は、リィシナのその声に呼応するかのように、 一気に天に向かって吹き上がった。それは夜の闇すらも貫き、月や星の光さえも飲み込んだ。
 荒野を走る蒸気機関車の上で展開される光の柱。
 それは紛れもなく幻だった。彼女の創り出したその幻は、一瞬にしてストールの全てと、 線路の延びる遙か後方までを包み込むと、眩い閃光を弾けさせた。何かがこの世に生を受けた瞬間の産声を、ロイは聞いた気がした。
やがて、閃光は粉雪となって消えた。その前と後では、周囲の空間の持つ雰囲気は明らかに変わっていた。 幻影も幻覚もそこにはない。だが何も変わらないはずの中に、形作られたものがあった。彼女の抑えつけてきたもの。 ずっと誰にも見せなかった彼女自身。
 風が、少女の白い髪をはためかせる。うつむき加減だった前髪の隙間から、とても深く、澄んだ紫色の瞳が覗いていた。
「ばかな。薬しか……疑似人格でしかファントマビリティは使えないはずだッ! こんなことは今まで一度も……、ぼ、暴走か!」
 ロイは男の狼狽ぶりに嘲笑した。少女の身に起きた現象を知っていたのだ。
「いや、」
 ただ、今まで見たことのないような幻影である。それは神の起こした奇跡か、 大自然の神秘か。リィシナの起こした幻影に、彼女の潜在能力の強大さを改めて目の当たりにし、 ロイは思わず背筋をブルブルと震わせた。
「――覚醒だ」
「黙れ! この期に及んでそんなものを認められるかっ!」
フューゲルがロイに照準を定める。が、ボーガンに重さの変化に気づいて、そのトリガーにかけられる指が凍りついた。
ボーガンに少女のような白い手がぶら下がっている。下へ下へ視線を移していくと、 頭の半分まで崩れ去ったリィシナが彼を見上げていた。それは創造主に向けて幻覚を創るという悦楽を求めた彼女の、 最後の幻覚だった。
「うっ、ああああああああああッ!」
 恐慌に陥ったフューゲルがボーガンごと彼女を振り払った。
車上に叩き付けられた彼女はガラスのような音を立てて割れ砕け、風の中に消えた。
「く、くそっ! この小娘め!」
 少女に向けたボーガンから矢が放たれた。だがそれは最初から狙いが外れていたのか、 彼女の頬をかすめることすらできない。自分の制御から離れた切り札の恐ろしさは、 彼自身が最も知っているに違いない。フューゲルはさらにもう一発撃ち出そうとした。 確実に覚醒したリィシナを仕留めるために。
「フューゲル!」
それを止めるため、ロイがあらん限りの力で飛び出した。脇腹と右足に走る激痛が、彼からスピードを奪っている。 だが、それでも彼は拳に力を込めて猛進した。
「この死に損ないがッ」
 ボーガンが間髪入れず発射された。ロイはそれに反応できるほど体力を残してはいない。 すさまじいスピードで向かってくるその得物は、ロイの心臓部を確実に捉えている。
 だめだ――、そう思った瞬間、ロイとフューゲルの間を、何かが突き抜けた。 ロイの身体が何かに引っ張られるように横へとずれ、放たれた矢は、彼の左腕をかすめただけに終わる。
「な――っ!」
 何が起こったかわからない表情で、フューゲルがまぬけに唖然とする。 ロイはよろめく視界の中で、確かにリィシナの意思をくみとった。
 幻覚だ。彼女の放った幻覚が自分を守ったのだ。
 覚醒したとはいえ、彼女の身体が限界に近いところまできているのは間違いない。 それでも自分を守るために、悲鳴を上げる身体と精神に鞭を打って、幻覚を放ったのだ。
 ロイは苦痛に表情を崩すリィシナに笑顔を見せる。それは彼がいつも見せていたような、そして、 彼女自身が求めていたものだった。
 ロイは大きく右足を踏み込んだ。矢を撃ち込まれた傷跡から血が滲み出し、 それに比例して痛みが彼の意識を蝕む。しかし、前を見据えるロイの闘志は、 それすらも完全に凌駕した。砕けんばかりに歯を食いしばり、左拳に全身全霊を込める。
「があアアあアああァあッ!」
一撃がフューゲルの顔面にヒットする。コンクリートの壁も打ち破るロイのストレートを頬に受け、 フューゲルの顔が歪に歪み、そしてよろめいた。
「――なにっ!」
だが倒れる寸前、フューゲルが彼の肩を軋むほどに強く鷲掴んだ。
拳の衝撃と突進の慣性が双方の身体を転がした。受け身も取れない状況で、 なんとか列車から落下する手前で止まった時、フューゲルが馬乗りになるようにロイを見下ろしていた。 残された彼の唯一の決定打であるボーガンが、その手にまだ固く握られている。
男の執念に、不覚にもロイは感嘆の念を覚えた。そして自責した。 自分の救おうとしていた少女が自力で復活を成し遂げたというのに、ふがいないと。
「くそ。最後に……ヘマったみたいだ」
「そうか。なら、終わりだっ」
 平衡感覚を失った腕が震えながらボーガンを構える。が、
「お父さん」
その呼び声にフューゲルは身を凍らせた。
ロイの目が、向けられる矢の先端から逸れた。白い髪の少女が視界の隅に見える。じっと仮初めの父親を見つめているようだ。
フューゲルはこの上なく見開かれた目を彼女に向けていた。
「う、動くなよ! ハハ、あ……当たり前のように父と呼んでくれるじゃないか。さんざん私に薬漬けにされておきながら」
「そうですね。でもこれが一番自然な気がしますから」
フューゲルの震えた言葉に応え、リィシナがゆっくりと立ち上がった。 それに対抗するかのようにフューゲルはボーガンを少女に突きつけ、左手をロイの首を押さえつけた。
「ち、近寄るな! 今となってはお前も邪魔者だ。殺すぞっ」
「それでも貴方は私の父です」
「滑稽だな! 何が私を『父』と呼ばす?」
ロイはフューゲルを突き放そうとする。が、両腕は疲労でほとんど動かない。足も同様で、 首を固定されているから頭突きすらできない。結局、「くそっ」と悪態をつくことしかできなかった。
「現実。私が受け入れた現実です。貴方は私の父で、私は貴方の娘です」
 苦しげに肩を揺らしながらも、リィシナの瞳には一点の曇りもなかった。今までの彼女からは想像もできない変化だ。
 しかしロイは、そんな彼女に何か、危うさを感じた。
「ロイから離れてください」
「それは警告か」
「はい」
引き金が震える指に引かれた。矢が少女の頬を浅くかすめた。
リィシナと自分達との間には、物理的には絶望的な距離が広がっている。そう、物理的には。
リィシナはそんなものは関係ないように、ただフューゲルだけをじっと見ていた。
「お父さん――」
――ロイ。
澄んだ声もその姿も、どこか希薄だ。今すぐにでも、どこかへ消え去ってしまうような頼りなさ。
「リィシナ! やめろ! これ以上幻覚を使ったら――!」
 喉元を押さえられ、苦しげに叫ぶロイに、リィシナは微笑み、「ありがとう」と言った。
「どのみち、私は薬のせいであとは廃人になるだけ。ならせめて最後はけじめだけはつけるね」
「ばっか――っ!」
 何を言ってやがる。こんなところでおまえがいなくなったら、何のために俺はここまで来たんだ。 どれだけ痛い目に遭ったと思ってるんだ。おまえには言う事が死ぬほどあるんだ。謝らせろ。 日の出から日の入りまで謝らせろ。おまえが笑うまで、おまえが俺の名を呼びながら肩を並べて歩けるまで、 俺は何度でも謝らないといけないんだ。それを最後だと? そんなことは俺が許さない。 おまえが泣くまで嫌がらせしてやるからな。おまえが俺を必要だというのなら、 俺はおまえが死ぬまで傍にいてやる。だから、だから最後だなんて、冗談でも言うんじゃねぇ。
 もはや喚きにも近いロイの叫びに、リィシナは聞き分けのない子供にむけるような、優しい苦笑を浮かべ、 それっきり彼に瞳を向けることはなかった。
 ただ自分に矛先を向けた父だけを見据え、フューゲルが何かを叫んだかと思ったら、その時には全てが終わっていた。
 ロイに馬乗りになっていた彼の身体がゆらりと崩れ、ロイを自由にする。白目を剥いて、 昏倒したフューゲルは、ロイを散々苛立たせたその声を発することはなかった。
 そしてリィシナの身体も、何の支えもなく倒れた。うつ伏せになったまま、白い髪を乱し、微動だにしない。
 拘束を解かれたロイは、全身の半分は機能を失われた身体を引きずりながら、彼女の元へと駆け寄った。 もう遅いなどと思いたくなかった。もがくように彼女を抱き起こし、叫ぶ。「リィシナ」の名を。
 つい数日前までは、迷惑そうに自分に振り向いてきてくれた。愛らしい頬を少し膨らませて、綺麗な瞳を細めて、 こちらを見るのだ。
 しかし、目の前で全ての力を失った彼女は、いつまでも彼女自身を呼ぶ声に応えることはなかった。
 


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