全くいらない時に事件は起こるものだ。
そしてそういうときに限って、自分の勘はやけに冴えるのだ。
コンクリートの塀に囲まれた狭い路地。物陰に隠れていたロイ=ストライフは、深いため息をつきながら、そんなことを考えていた。
手に持った拳よりも少し大きいハンバーガーは、すっかり冷めてしまっている。昼飯にと買ったのだが、それにありつくまでは、
あとどれくらいこの腹に我慢してもらえばいいだろうか。
そのことを相棒のブラス=アーカンソに伝えたところ、「知らん」とだけ返ってきた。口をへの字に結んで、
前方を見やる彼に、ロイは一つ、ため息をついた。
元々事の発端はロイに原因があった。
ここ、ザフトス市の治安を守る治安管理局で、刑事課の同僚であるロイとブラス。本日彼らに下された仕事の内容は、
文字通り街のパトロールだった。
最近頻発している連続通り魔事件。その現場が、メインストリートから一つか二つ外れた小さな路地に集中しているため、
そこらへんに重点をおいてしっかりやってこい、と相変わらず曖昧な上司の説明で、二人は朝っぱらから街に放りだされた。
朝が弱いロイに比べ、仕事に対しては誠実なブラスは、不満をたれるロイを引っ張りながら、街中を歩き続けた。
周辺の民家、店、事務所への聞き込み。見回り。網の目状になっていて、非常にわかりにくい路地裏を、
くまなく見回ったつもりだった。
それでも怪しいところは認められず、昼を告げる鐘が丘の向こうから聞こえてくる。
ロイとブラスが昼食を取るために、細い路地から中央大通りに出ようとした、ちょうどその時だった。
ロイがふと、角からひょいと現れた妙な男を見つけたのは。
ボサボサの髪に、白いランニングシャツ。肌はやや白く、覗く腕はお世辞にも筋肉質とはいえない。
見た感じではこの辺の工場の職員というのが一番しっくりくる。手には灰色の巾着袋。それを脇に抱え、
男は正面に建つ工場内へと消えていった。
それを確認し、ブラスが肩に入っていた余分な力を抜いた。
「帰るか?」
「何で帰るんだよ。あの中に入って確認するんだよ」
ロイの質問に、半ば呆れ気味にブラスが、男が消えていった工場を指差した。
二メートルほどの塀に囲まれ、その向こうに建つのは古い二階建ての繊維工場。ところどころひび割れていて老朽化が激しい。
人気は無く、すでに誰にも使われなくなった廃工場かと思ったが、ロイは一つ不審な点を見つけていた。
それをまたブラスに伝えようか迷ったが、そうしている間にブラスもそれに気づいたようだ。
物陰から出て、工場の入り口近くまで行き、赤く錆びた門に目をやる。
太い鎖。その先についた頑丈そうな錠。どんな工具を用いても破れそうもないしっかりとした物。
錠そのものには何にも問題はない。あるとしたら、それに繋がる鎖の方だった。
「切られてる?」
「ああ、力任せにばっさりな」
口元に手をやり、目前にそびえる灰色の工場を見上げるブラス。細めた目をやや戻し、ブラスはロイに尋ねた。
「ロイ、この辺はどこの会社のもんだった?」
「ああ、たしかフェルゲートカンパニーのだな。規模から見て、下請けみたいなもんかな」
もはやこれにありつけることはないだろうと、諦めの念も込めて、ロイはハンバーガーをポケットに押し込みながら答えた。
「しかしもう使われてないみたいだしな……」
見上げる工場に、もう人の匂いも、音と動きの気配すら感じられない。すでに役目を果たし、死に絶えた無機物の城。
「そのフェルゲートカンパニーで働く奴だと思うか?」
ブラスが再び尋ねる。その目が「直感でいいから、思ったことを答えろ」と言っている。
「……正直、すっげぇ怪しい……」
ため息まじりにそう言うと、ブラスは「よし」と頷いて、敷地内に入っていってしまった。
ややこしいのは嫌いだ。
しかし怪しいといった手前、何もしないのはもっと嫌だ。
ロイは黒いざんばら頭をぽりぽりとかきながら、ブラスの後を追った。
数メートルほどの石の通路を通り、その先にあるのは鉄でできた小さなドア。赤錆で覆われたその様は、
見ていて痛々しささえ覚えてしまうものだ。
「入るぞ」
との目の合図を、ロイが頷きで返すと、ブラスは静かに工場の入り口のドアを開け、中に入っていった。
工場の中はかなり埃臭い。もう使われなくなってどれくらい経ったのか、置き去りにされた紡績機やドラム缶が妙に虚しかった。
双方の壁には、二階部分にキャットウォークが設けられていて、その横にある黄色く濁ったガラス窓から、
外の光が辛うじて中に入ってきている程度だ。窓から入った光の軌跡が、宙を舞う埃を鮮明に映し出す。
久しぶりの客人に、喜んで愉快に踊っているようだ。
工場内はひっそりと静まり返っている。外から聞こえてくるかすかな音が、うるさく聞こえてしまうほどだ。
まるで粗大ゴミ置き場のようになっている工場内を、編むように進んで行くと、ちょうど開けた場所に出たところで、
横にいるブラスが眉間にしわを刻んだ。
「あれ、見てみろ」
ブラスが指差す方向には、黄色いドラム缶が八個陳列してあった。その前に、こちらに背を向ける形で男がしゃがみこんで、
何か作業をしている。
男を挟んで右に三個、左に五個のドラム缶。そのどれもが、光沢を持ち、この荒廃しきった空間で異彩を放っている。
それを見てロイは額に手をやった。
やはりこういう時の自分の勘は、恐ろしく冴える。
思わず苦笑するロイ。男があのドラム缶に仕掛けているのは爆薬だった。幾つもの導火線が男の脇からちらりちらりと垣間見える。
「なあ、ブラス。おまえ、あれがどれくらいの量かわかるか?」
「さぁな。まあ、一つ言えるのはあのまま爆発すると、俺達はこの世にいないよ」
つまりは工場もろとも吹き飛ばすほどの威力ということか。またもやロイは苦笑した。
突然訪れた大事件の予感と、大きな重圧。死を意識せざるを得ないという、重大な事態に、ブラスもさすがに緊張を隠せないでいた。
「どうする? このまま上に報告するか?」
額に汗が浮かぶ。体験したこともない未知の不安と恐怖。それがブラスを蝕んでいるのか、
彼の声は若干震えているようにも聞こえた。
「……いや、そんな時間はないし、必要もない」
そんなブラスの気持ちを落ち着かせるように、ロイは小さくそう答え、ブラスの肩をぽんと叩いた。
「ブラス、おまえはここにいろ。俺が合図するまで何もしないでいい」
「……わかった」
彼がなぜそうあっさり答えたのか。
元々自分達がこの局面を打破しないといけないのはわかっていたし、彼ではそれができないということもわかっていたからだ。
しかしロイにはそれができる。その理由がブラスの物とはわずかに型が違う治安管理局支給の制服。
一般的に着用される制服よりもやや濃紺で、左腕にある「SEMS」と刺繍の入ったエンブレム。
そして彼が背に背負っている大きなホルスター。その中に納まる得物――。
ロイはゆっくりと中腰になると、鋭い眼光で目標にある状況を分析した。
確認できる限りでは、男が仕掛けてる爆薬はわずかに一つ。裏を返せば一つでも十分、
この工場に致命傷を負わせることができる、ということだ。
しかし爆発は最悪ではない。あのドラム缶を破裂させられることこそが最悪の事態だ。
ロイにはあの八つの凶悪な姿を見た瞬間にそう判断していた。その中に収まる禍々しい物質。それをこの空気中に出してはならない。
まあ、結局のところ、爆発を阻止するのが一番近道なわけなのだが。
男に火をつけさせる前に取り押さえる方法は一つしかない。ロイは、ゆっくりと上半身を起こすと、紡績機の影から身を出した。
じゃり、と足音を聞き、男が顔色を変えてバッとこちらに振り向いた。
地を強く蹴り、一息の間に男との距離を詰める。
「――、!」
男が驚き、目を見開く。
そしてとっさに何かに火をつけた。導火線だ。パニックか無意識か、
しかし導火線に伝わった火が爆薬に届くまでは十数秒の余裕がある。こんな男を取り押さえるのにはその十数秒で充分だ。
男が放ってきた手刀をひらりとかわし、腹に一撃を加える。男が体を折って崩れ込んだ。
足元の線を伝う火を思いきり踏みつけ、完全に消えたのを確認する。ロイが紡績機から飛び出してから十秒とかからない、
鮮やかな御用劇だった。
「おい、この火薬、爆発させて何をするつもりだった?」
ロイの一撃がそんなに強力だったのか、体を震わせ、男は体を起こそうとしない。
その行為があまりに長かったので、ロイは男を無理矢理起こして質問に答えさせようとした。
「くくくく……」
笑った?
眉間にしわを寄せたロイは、男の胸倉をつかみ、さらに強く質問しようとしたその時だった。特有の焦げ臭さが鼻腔をかすめたのは。
もうその瞬間には、恐ろしいスピードで思考が展開されていた。
導火線はしっかりと消したはず。それなのにこの耳に入ってくる音は何だ? そして微かに臭う火薬臭さは何だ。
火は消した。だが火はまだ残っている。
答えは一つしかなかった。
――ダミー。
まるで怯えたように振り返ると、一つの光点が絶望的なスピードで終着点まで進んでいた。
消した導火線はダミー。そしてあちらが本命。
何てことだ。こんな単純なトラップに引っかかるとは。
もはや、動物的な勘でその場からダッシュを開始するロイ。男も連れて行きたかったが、
どうやら残された時間はそれさえも許してくれそうもなかった。背後から聞こえてくる狂ったような笑い声に、
戦慄を覚えながら、ロイは力の限り走った。
「ブラス! ここから出るんだ!」
聞こえただろうか。切羽詰ったこの状況。ロイのあらゆる感覚は、スローモーションとなっていた。荒い息遣い、
地を蹴る音、その度に宙を舞う埃と砂利。そのどれもが、信じられない程ゆっくりに見えた。
紡績機の影にブラスが見えた。状況が飲み込めていないらしく、そこから動こうとはしない。
馬鹿野郎! 何してんだ、死にてぇのか!
恐らく罵声に近い叫びだったのだろう。あまりに余裕のないロイの表情を見てか、状況をようやく理解したようだ。
ブラスもまた出入り口に向かって走り出した。ここから出入り口まで約数メートル。もう見えている。
が、その距離は腹立たしい程、遠く感じられた。まるでこちらが走った分だけ遠のいていっているような。
不意に、背後から聞こえてきていた、男の笑い声が聞こえなくなった。
来る。
あと何秒だ。せめてあと三秒くれ。そう願った矢先だった。
前方にある入り口のドアが、きいいと音を立てて開いた。外からの眩しい光が二人の視覚を一瞬奪う。本来、
人に安らぎを与えるはずの日の光に、ロイは戸惑いとそれ以上に驚きを感じた。そこに人間の形をしたシルエットが、
ふらりと現れたからだ。
そしてそれがまだあどけない少女だったことに、ロイはさらに驚いた。
真っ白の、思わず見とれてしまうほどの長い髪。それに合わせたような純白のワンピース。年齢は十四、
十五といったところか。虚ろな瞳が、逆光の中でも、「紫」という色に染まっていることだけは確認できた。
中の様子を覗うでもなし、そのまま中に入ってくるわけでもなし、少女はそのまま入り口に立ち尽くしたままだ。
馬鹿なっ、なんでこんな所に――。
ある種の憤りと共に、数々の疑問が頭に渦巻く。が、今はそれも全て捨て、ロイは最後の一蹴りとばかりに、大きく跳び、
その場で動かない少女に飛びついた。ロイの腕が少女の華奢な体を包み込んだその直後――。
一瞬のフラッシュと共に、激しい閃光がロイ達を襲った。コンマ一秒後に耳をつんざく轟音。そして衝撃波。
大きな波に飲まれたように、ロイ達はそのまま猛烈な爆風に吹き飛ばされた。
殴りつけられるような、強烈なインパクト。全身に激しい痛みを感じたが、ロイはそれでも少女を離さなかった。
見知らぬ男に抱きつかれ、そして工場を吹き飛ばすような大規模な爆発に巻き込まれたのにもかかわらず、
少女は叫び声一つもらさない。
ロイと少女は、宙で大きくきりもみしながら、やがて地面に叩き付けられた。反射的に受身をとったため、
そんなにダメージはない。それよりも爆発に巻き込まれ、そのまま姿の見えなくなったブラスの方が心配だった。
体をすぐさま起こし、辺りを見回すと、そこは工場前の砂利道。工場はすでに跡形もなく吹き飛び、
残るのは工場を囲んでいる壁だけだ。大きなコンクリートの残骸や紡績機が、空中で大きな弧を描いて、
やがて落ちてくる。一ヶ所に留まるのは危険なようだったので、ロイは少女の手を取ろうと手を伸ばした。
――と、不意に彼を取り囲む視界が急激に変化した。地面と空気。そして周りの光景。
全壊した工場も瓦礫も自分も、全て異様な空間の中へと誘われる。
正確に変わった部分は地面と炎、周りの建物と空の色。本来、常識として捉えられている色彩が、
全く反転してしまっている。白は黒に、黒は白に。これは幻か。
そうだ。
これは幻なのだ。正確には「幻影」という名の。
全身に走る悪寒に、ロイは反射的に、背に装着していたホルスターから得物を抜き取った。
黒い刀身の、ソード型の武器。
「トゥルース・ソード」と名づけられているその剣を構えながら、ふとロイは、
すぐそばにいたはずのあの少女の姿が見えないことに気がついた。
一瞬飛んできたコンクリートの欠片や、火にやられたかと思ったが、そんなはずがないと判断できたので、
ひとまず安心する。が、その安心が皮肉にも、彼を襲う次なる脅威になることを、ロイはしっかりと悟っていた。
視界は悪い。くすぶる火と黒煙。原因はしかしこれだけではない。むしろ「他の原因」が占める割合の方が大きいだろう。
四方を靄のようなものに囲まれ、それに呼応するように、みなぎる殺意と脅威が彼の全身を震わせた。
日光がかすかに視界を救う。黒い幕の向こうで、一つのシルエットがゆらりと現れた。
背丈は小さい。先ほどの少女だということが容易に推測できる。しかし無事を確認できていながら、
ロイはその警戒をさらに強めた。
影が右へ左へゆれている。まるで風に翻弄されている人形のよう。彼女に意識はあるのだろうか。
いや、あるのかないのかなど関係がない。幻影は恐らく彼女の制御下から離脱しているのだから。
瞬間的に増大する危機感。それよりも早く彼を射抜く一つ大きな塊。それは殺意の衝動か、それとも単純な防衛本能か――。
――化け物。
その感覚を前にして、ふと思い浮かんだイメージがそれだった。見ただけで相手を射殺してしまいそうな、絶大な脅威。
彼女を止めなくては。このまま彼女が止まらなくては、被害はこれだけには留まらない。
ロイはソードの柄を握り直し、意を決したように、少女に向かって一閃した。
その瞬間、ロイの背後にある、跡形もなくなった工場から再び爆炎が上がった。二次災害と呼ばれるものだ。
周りにあった使い古しのオイルなどに引火したのだろう。やがてそれらは誘爆に誘爆を重ね、ロイと少女を飲み込んだのだった。
第1章 幻影対策係PAS